2021年、日本で初めて「孤独・孤立対策担当大臣」という役職が誕生しました。新型コロナウイルスの感染拡大により人との関係が断たれ、心の支えを失った人々が自ら命を絶つという痛ましい出来事が相次いだことを受け、政府が重い腰を上げた結果でした。
当時の菅政権は、いち早く坂本哲志衆議院議員を初代担当大臣に任命し、同年5月には「孤独・孤立対策の重点計画」も閣議決定されました。これは一時的な対策ではなく、行政として持続的な課題対応を行うという意思を示したものでした。自治体にも「孤独・孤立対策官」が配置され、民間との連携によるSNS相談、見守りシステム、補助金交付などの支援が具体的に始まったのです。
ところが2024年、石破政権の発足とともに、「孤独・孤立対策担当大臣」というポストは廃止され、その業務は「共生・共助担当大臣」に統合されました。政府は「政策の効率化」「包括的支援」を理由に挙げていますが、私はこれは実質的な“切り捨て”ではないかという危機感を持っています。
支援対象が広がることで見えなくなるもの
「共生・共助」という言葉は一見、包摂的で温かな響きを持っています。障がい者、高齢者、子育て世帯、ひとり親家庭、生活困窮者など、確かにそれぞれが孤立や困難を抱えており、一体的に支援する発想は理解できます。
しかしその中で、「孤独」という状態そのものへの視点がぼやけてしまうという問題があります。支援対象が広がる一方で、個別の課題が政策の中に埋没してしまい、優先順位が下がるのです。
たとえば、「孤独・孤立対策」と名のつく部署や事業が「共生政策」の一部として吸収されると、予算は再配分され、専属職員が減らされ、専門的な窓口が統廃合される傾向にあります。結果として、もっとも声を上げづらい人たちへの支援が遅れるおそれがあります。
そして何より、「孤独」という言葉自体が政策名称から消えてしまったという事実が、社会に対して「この問題はもはや重視されていないのではないか」という印象を与えてしまうのです。
象徴としての「孤独担当大臣」の意義
もちろん、「孤独担当大臣」が設置されたからといって、すぐに人が救われるわけではありません。しかし、このポストの存在が国の姿勢を示す象徴的な役割を果たしていたことは事実です。
当時、各自治体では相談窓口が設けられ、若年層向けのLINE相談、高齢者の孤立死を防ぐ見守り体制、NPOへの補助金支援などが広がりを見せました。こうした動きの出発点は、「国が孤独を正式な社会課題と認識した」という強いメッセージにありました。
さらに、国会では「孤独・孤立対策推進法案」のような恒久法整備も複数回検討されていました。成立には至らなかったものの、こうした動きの背景には、大臣ポストによって生まれた社会的注目と政治的圧力があったことも見逃せません。
それが、わずか数年で廃止され、名称からも「孤独」の文字が消えたのです。政策の一貫性という観点からも、軽々に扱うべきことではなかったはずです。
声を上げられない人たちが、また取り残される
孤独に苦しんでいる人ほど、自ら声を上げることができません。そもそも「相談する」という行動が心理的・物理的に難しいからです。だからこそ行政には、先に気づき、手を差し伸べる姿勢が求められます。
ところが、今では自治体のホームページから「孤独相談」という文字が消え、かつて支援を受けていた団体が「来年度の予算が確保されるか分からない」と不安を漏らすようになっています。若者や高齢者が再び静かに孤立へと追いやられていく、その予兆がすでに見え始めているのです。
政府は「支援の内容は変わらない」と説明します。しかし、政策名から「孤独」が外れたことで、行政、メディア、そして国民全体の意識が薄れていくのは避けられません。
効率よりも、人と命に向き合う政治へ
政治や行政は、「効率化」「施策の統合」「縦割りの打破」といった方針を好みます。税金を使う以上、ムダの削減や統一的な政策設計は重要な視点です。
しかし、「孤独」や「孤立」という問題は、統計だけでは測れない心の問題であり、ときに命に直結する深刻な社会課題でもあります。
もし効率化を優先するあまり、声を上げられない人の存在が見過ごされるようになってしまうのだとしたら、その政策は「人に寄り添う」とは言えません。
今、社会に問われていること
孤独は、誰にでも起こり得る身近な問題です。家族がいても、職場があっても、SNSでつながっていても、人は簡単に孤立します。
「孤独担当大臣」が存在していた社会とは、国として「人の気持ち」を見ようとしていた社会だったのではないでしょうか。
だからこそ今、私たちに問われているのは、「あなたの隣にいる人が、孤独に苦しんでいたとき、それに気づける社会であるかどうか」という問いです。
石破政権が「孤独・孤立対策担当大臣」を廃止した理由には、行政上の合理性や予算上の整合性といった事情もあったのでしょう。
しかし、政策の名称から「孤独」という言葉を消すという行為は、社会の視線そのものを変えてしまいます。
私は今、「制度の一元化」よりも、「見えない人に光を当てる政治」を望みます。そして再び、「孤独」という言葉が正面から語られる社会が戻ってくることを、心から願っています。
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