剣山に現れる白い女──徳島の山に眠る神秘と怪異の伝承

剣山 徳島の山神異譚集

徳島の山神異譚集・第一話

「剣山の白い女」

剣山(つるぎさん)は、徳島県の西部にそびえる標高1955メートルの霊峰である。古くから山岳信仰の対象とされ、かつては修験者たちがこの山を舞台に数々の行を行ったという。

その山で、ある不思議な体験をした男がいる。いまから三十年ほど前、三好市に住む中年の男性──仮に「田村さん」としておこう──が、夏の終わりに単独で剣山を登ったときのことである。

彼は地元で林業に関わる仕事をしており、山道や天候には慣れていた。ふだんは大歩危からの林道を経て登ることが多かったが、その日は気まぐれに、やや東寄りの古道を選んだという。地元ではすでに廃れて久しい、修験の古道であった。

その登山道に入ってから数時間。登山道とはいえ、荒れ果て、落石も多く、ところどころで道が消えかかっていた。午後の陽が傾きはじめ、少し焦り始めたころだった。

田村さんは、前方に白い何かが見えるのに気づいた。最初は風に揺れる布かと思ったが、それは動かなかった。近づくと、それは人だった。

白いワンピースのような服を着た、長い黒髪の女が、登山道の脇に静かに立っていたという。

驚いて声をかけたが、女は振り返らず、じっと山の上方を見つめていた。年の頃は二十代半ばくらいで、登山客らしからぬ軽装であった。

「こんなところで何をしているんだ?」

田村さんがそう問いかけると、女はかすかに顔をこちらに向けた。

「……神さまが、お帰りになる道なんです」

それだけを言って、女はふたたび山の上を見つめた。

言葉の意味は分からなかったが、背筋がすうっと冷たくなったという。田村さんは、これ以上かかわってはならないと直感し、足早にその場を離れた。

ところが、いくら登っても、先ほどの場所がまた現れる。視界の端に、再び白い女が立っているのだ。焦った田村さんは、登山道を外れて小さな沢沿いを迂回した。

ようやく山頂付近にたどり着いたとき、辺りは夕闇が迫っていた。山小屋の管理人が不思議そうに彼を迎えた。

「そのルート、今は通れないはずだよ。去年の土砂崩れで完全にふさがれたんだ」

田村さんは、その日泊まった山小屋で熱を出し、一晩うなされたという。

翌朝、小屋の前で休んでいると、初老の山伏姿の男が近づいてきた。

「あなた、白い女を見ましたな」

男はそう言って、静かに合掌した。

「彼女は、山の神の道案内をする者。迷った者を導くこともあれば、ふさわしからぬ者を帰さぬこともある」

田村さんは、その後、二度とその古道を通ろうとはしなかった。

そして今も、その白い女のことは語らずにいる。

ただひとつ、あのときの女の眼差しは──

「人間のものとは思えなかった」とだけ、ぽつりと語ってくれた。

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