吉田拓郎の『流星』という歌を、葬式で流したいという人が少なくないそうだ。
それを聞いて、なるほどと思う部分もあるが、どこか違和感もある。
自分の葬儀の場で曲を流すというのは、どうしても「自分はこういう人間でした」と他人に伝えたい、最後の自己紹介のように思えてしまう。それが悪いとは言わないけれど、私自身はそこまで人に知ってもらいたいとは思わない。
記憶に残る人生への違和感
人の記憶に強く残るというのは、なんとなく居心地が悪い。何年経っても語られるような人物、記憶に残るエピソード、忘れられない顔──それはどこか、痛みを伴う。
強い印象とは、良くも悪くも記憶の中でひっかかるものだ。そこに必ずしも善意や温かさがあるとは限らない。むしろ、忘れられないということの多くは、心のどこかに影を落としている。
だから私は、人の記憶に残るような人間になりたいと思ったことがない。
「そんな人いたっけ?」
そのくらいがちょうどいい。
ただ消えていくことの美しさ
『流星』を聴いていると、一瞬だけ空を横切る光が、何の跡も残さずに消えていく。誰にも見られず、誰にも語られず、でも確かにそこに存在していた。
そういう姿に、私は安心する。何かを残さなければいけない、という圧力から解放される。
生きて、ただ消えていく──それだけのことに、余計な意味を持たせたくない。
欲しないという選択
あの歌の中で繰り返される問い──「君の欲しいものは何ですか」。
私はその裏に、「私は欲しいものなんて何もないんだ」という、静かな否定の気配を感じる。
欲しがらない、求めない、追いかけない。
それは諦めではなく、選択なのだと思う。
もう充分なのだ。何かを望んでいた頃は確かにあったけれど、それを経て、今はただ、「無くてもいい」と思えるようになった。
歌詞に出てくる少女の部分は離れて暮らす孫を思ってしまう。
孫のことは、可愛い。大切だ。けれど、私のことが強く記憶に残ってしまうのは、少し違う気がしている。
人の記憶に深く残るということは、何かを刻むことだ。嬉しいことばかりではなく、傷も残る。
だから私は、ただ静かに通り過ぎる存在でありたい。
会えたら少し笑って、しばらくしたら忘れてもらっていい。それでいいと思っている。
歌を聴くと孫を思って少し泣いてしまうが。
知られずに、そっと消える
いずれ終わりが来る。それは自然なことだ。
私はそのとき、特に誰かに知らせたいとも思わない。
「あの人、いつのまにかいなくなってたね」
そのくらいが、私には似合っている。
『流星』を自分の葬式で流す気はないけれど、あの歌の静けさと距離感には、いつも共感している。
名残を残さず、誰かの言葉にも残らず、記憶にも強く残らない。
ただ、流れる星のように。そんな歌だと思う。
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