明治時代の食文化と江戸時代からの変化

稲穂 歴史

9月半ばに帰省し東京へは戻りません。東京での食生活は自分でも酷いと感じているので、田舎で暮らすようになればかなり見直したいと考えています。パンや緬などの小麦食は極力避け、米食中心の元来の日本人食、それもかなりな粗食になると思います。

もともと料理には興味があり、上京する前は3食自炊していました。そんなこともあって、最近は食に関する動画などを見て学んでいます。この動画は江戸時代から明治にかけての食について素晴らしくまとめられているので参考にさせていただきました。

明治時代の食事事情!江戸時代からの変化や都市部と地方での格差とは?

以下は動画の内容をまとめたものです。

明治時代の食事事情:江戸時代との変化と都市部・地方の格差

江戸時代から明治時代にかけて、日本の文化や産業、さらには生活様式に至るまで大きな変革がありました。食生活もその変革の一環であり、海外からの新しい食文化の流入と、それを日本人が独自にアレンジすることで、食文化は劇的に変化していきました。この記事では、江戸時代から明治時代にかけての食事事情の変化について、そして都市部と地方の格差について詳しく見ていきます。

江戸時代の肉食事情

江戸時代の日本は仏教の影響が強く、肉食が避けられていたと思われがちですが、実際には肉は食べられていました。鹿や狸、猪などが主な食材として使われ、特に豚は江戸や長崎で飼育されていたことが記録されています。ヨーロッパのように家畜を大規模に飼う習慣はなかったものの、薬としてや食材として肉が消費されていたのです。

ただし、上流階級の武士や庶民階級では、仏教の教えに基づき肉食が制限されることも多かったため、日常的に肉を食べる機会は限られていました。一部の地域では、保存食として豚や牛の肉を使った料理も存在し、保存方法として干肉やカス漬けが用いられました。また、肉食を避ける理由は宗教的な理由に限らず、牛を食べると労働力として使えなくなるため、実利的な理由もありました。

江戸時代の食生活と栄養問題

江戸時代の食生活は、米が中心でした。米は田畑の開発が進むにつれ、江戸の庶民にとっても手に入りやすい主食となり、成人男性は1日あたり5合もの白米を食べるのが一般的でした。ただし、主なおかずは野菜や味噌汁、漬物で、栄養バランスが悪く、特にビタミンB1の不足から脚気(かっけ)が流行しました。この病気は「江戸わずらい」として知られており、玄米を食べれば防げたものの、江戸の庶民は栄養価の高い玄米ではなく、銀白の白米を好んで食べたため、栄養不良に陥っていました。

こうした栄養問題を一部解決したのが蕎麦で、ビタミンB1を補うため、蕎麦屋が江戸で流行しました。

明治時代の食生活の変化と脚気撲滅運動

明治時代が始まりましたが、すぐに食生活が劇的に変わるわけではなく、引き続き白米中心の食事が一般的でした。その結果、明治3年(1870年)頃には脚気が再び大流行し、多くの人々が命を落としました。特に、明治10年の西南戦争では兵士たちの間で脚気が多発し、大きな問題となりました。

脚気撲滅に大きな貢献をしたのが海軍軍医の高木兼寛です。高木は、船によって脚気の発生率に差があることに気づき、食事に問題があると考えました。彼は、白米中心の食事ではなく、タンパク質と炭水化物のバランスを取ることが脚気予防に効果的だと推測し、実験を行った結果、洋食を取り入れることで脚気の発生が大幅に減少したことを確認しました。この改善策は海軍内で広まり、海軍カレーの誕生にも繋がりました。当初、イギリス海軍を真似てパンを添えていましたが、後にご飯にカレールーをかける日本独自のスタイルが定着しました。

一方、陸軍では缶詰が導入され、保存性が高く栄養価のある食事を提供することで脚気を予防しました。特に北海道の石狩缶詰所で生産された鮭缶は、ビタミンB1を豊富に含んでおり、兵士たちの栄養補給に大いに役立ちました。

都市部と地方の格差

明治時代、都市部では食生活が次第に豊かになり、脚気も徐々に撲滅されていきましたが、地方の農村部では依然として貧しい食生活が続いていました。米を中心にした食事が広まり、ビタミン不足が深刻な問題となり、脚気が地方でも蔓延しました。

例えば、群馬県の富岡製糸場では、工女たちに1日3食の白米が提供されていましたが、これが逆に脚気の原因となりました。また、地方の農家では、かつてビタミンB1を補っていた雑穀畑が桑の葉栽培に転換され、栄養バランスが一層悪化していきました。このように、脚気は一時的に都市部で収束したものの、地方では引き続き大きな問題となり、明治時代全体を通じて社会的な課題となっていました。

洋食文化の普及と新しい調味料

明治時代後半になると、西洋料理が日本に浸透し始めました。特に高等女学校が設立され、家庭科の授業を通じて洋食の調理が教えられるようになりました。これにより、和洋折衷の料理が一般家庭でも作られるようになり、西洋料理が広まっていきました。また、明治後半には西洋料理のレシピ本も出版され、庶民の間で大きな支持を得ました。

この洋食文化の浸透と共に、食用油や調味料も新たに普及しました。江戸時代では、油は主に灯火用で、料理にはほとんど使われていませんでしたが、明治時代になるとコロッケやカレーライスなど、油を使った料理が登場しました。さらに、ウスターソースやケチャップといった新しい調味料も登場し、洋食の味付けに欠かせないものとなりました。特にケチャップは、明治29年(1896年)に横浜の清水屋が初めて国産化し、その後カゴメが本格的に製造販売を開始しました。これにより、洋食が日本の食卓に浸透していきました。

牛鍋とすき焼きの誕生

牛鍋(すき焼き)は、文明開化の象徴的な料理として広まりました。牛肉は江戸時代後期から利用されていましたが、明治時代になると「牛鍋」として庶民の間でも人気を博しました。関東では牛鍋、関西ではすき焼きと呼ばれるようになり、それぞれの地域で独自のスタイルが発展しました。

明治時代の食文化の影響

明治時代を通じて、日本は西洋技術や文化を取り入れ、急速に近代化を進めました。食文化においても、欧米の影響を受けながら独自のアレンジを加え、現在の日本の食文化の基礎が形作られました。しかし、都市部と地方の間では食生活の格差が広がり、都市ではポークカレーやカツカレーが流行る一方で、地方では雑穀を中心とした食生活が続いていました。このように、食文化の変化は社会全体の変化を反映し、食生活が時代とともに進化していったのです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました