理想を掲げて責任を取らぬ人々──現実に立ちすくむ社会の構図
理想を語ることは、美しく、耳に心地よい。「人権」「共生」「多様性」「平等」──これらの言葉は、どれも社会の進歩を象徴する響きを持つ。しかし、そうした理想が現実の中でどれほど実効性を持っているか、そして理想を掲げた者たちが、その結果に責任を負っているのかと問えば、答えはきわめて曖昧だ。
たとえば、外国人労働者の受け入れをめぐる政策。これを推進してきた人権派弁護士、市民団体、教育関係者の多くは、「人道的見地」や「国際貢献」「労働力不足への対応」を名目に、制度の必要性を強く主張してきた。しかし、彼らが描いた理想とは裏腹に、現実では数々の問題が噴出している。
技能実習制度では、過酷な労働環境による失踪者や自死者が出ている。不法滞在、暴力事件、文化摩擦なども増加し、地域社会では生活ルールの違いや言葉の壁によるトラブルが頻発している。川口市や大泉町のような一部自治体では、もはや「多文化共生」どころか「多文化衝突」とでも呼ぶべき状況が起きているのが実態だ。
にもかかわらず、理想を掲げた支援者たちはどうしているか。問題の表面化とともに、姿を消し、語らず、対処もせず、責任の所在を他人に転嫁する姿が散見される。行政や警察に「それは制度の問題だ」「予算が足りないからだ」と責任を押しつけ、地域住民の不満や懸念の声には「排外主義」「差別意識」などとレッテルを貼って議論を封じようとする。
このような態度こそ、最も無責任である。社会を良くするために制度を提案したのであれば、その制度が不具合を起こしたときにこそ、先頭に立って現場の声に耳を傾け、改善を主導すべきではないか。制度設計に関わった者が「自分は提案しただけ」と手を引き、現実の運用は他人任せという構図は、責任ある公共の議論とは言えない。
しかも、そうした理想主義者の多くは、首都圏の大学キャンパスや公共ホール、メディアのスタジオといった、現場から遠い場所で声を上げていることが多い。彼らの暮らしが実際に外国人と密接に交わる地域にあるのかは疑わしい。つまり、リスクは他者に押しつけ、理念だけを語るという、都合のいい立場に立っているのだ。
さらに厄介なのは、彼らの理想が「善」や「正義」として扱われがちなことだ。人権や共生は、誰も反対しにくい言葉である。だからこそ、その言葉を掲げる側には一層の自省と説明責任が求められるべきなのに、実際には「私は差別と闘っている」と自らを正当化する盾にしてしまっている。
もちろん、理想そのものを否定するつもりはない。理想は社会を前進させる原動力でもある。しかし、理想を語るのであれば、必ず「その結果を自分も引き受ける」という覚悟が必要だ。他人に責任を押しつけ、現実の負担を地域住民や現場職員に背負わせるだけでは、それは単なる無責任な主張に過ぎない。
制度は運用されて初めて意味を持つ。その運用の中で起きる軋轢や矛盾に向き合わず、「本来の理念は正しい」と繰り返すだけでは、もはや思考停止と変わらない。声の大きい理想論者が制度を動かし、その影響で困難を強いられるのが声なき一般市民であるという構図は、現代日本の病理と言っても過言ではない。
我々は今、理念の裏にある現実を見直すときにきている。理想を掲げる者には、言葉の責任を問うべきだし、制度の現実に手を突っ込む覚悟がある者こそが、信頼されるべき支援者である。耳障りのよい正義ではなく、泥にまみれた現場の痛みと共に歩む責任ある理想主義者が、これからの社会に必要だ。

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