🧍♀️「孤独担当大臣」はなぜ消えた?──支援を必要とする人が“見えなくなる”という危機
「孤独」という言葉が政策から消えた日
2021年、日本で初めて「孤独・孤立対策担当大臣」というポストが誕生しました。
新型コロナによって人と人とのつながりが断たれ、心の支えを失った人が自ら命を絶つ――
そんな痛ましい出来事が社会問題として浮上し、政府がようやく重い腰を上げた象徴的な動きでした。
けれど、2024年。
石破政権が発足すると、「孤独・孤立対策担当」はあっさりと廃止され、「共生・共助担当大臣」に統合されました。
表向きの理由は「政策の効率化」「包括的対応」だとされていますが、私は率直に言って**“これは切り捨てではないか”**という危機感を持っています。
支援対象が「広がる」ことの落とし穴
「共生・共助」という言葉は美しい響きを持っています。
障がい者、高齢者、子育て世代、ひとり親、生活困窮者…確かに、それぞれが孤立や困難を抱えています。
だから一体的に支援しよう、という考え方は理解できます。
しかし、問題はそこに**「孤独そのもの」を支援する視点がぼやけてしまう**ことです。
「共生」という大きな傘の下に入れられた瞬間、孤独や孤立は“目に見えにくい”問題になってしまいます。
予算の優先順位も下がり、支援の手は遅れ、相談窓口は縮小され、現場は混乱します。
何よりも、「孤独」という言葉が政策の名前から消えたことで、**「社会がこの問題を見なくなった」**という強い印象を与えてしまったのです。
大臣ポストの力は象徴的だった
正直に言えば、「孤独担当大臣」ができたからといって、すぐに誰かが救われたわけではありません。
でも、このポストがあったことで、行政もメディアも国民も、「誰かが孤独であること」に目を向けるようになりました。
- 各自治体で相談窓口が開設され
- 若者向けにSNS相談が拡充され
- 高齢者の孤立死を防ぐ見守りシステムが導入され
- 支援団体への補助金が出るようになった
すべては「国が孤独を問題だと認めた」ことが出発点でした。
それがたった数年で、“組織の都合”であっさり消されてしまったのです。
一番声を上げられない人が、また取り残される
孤独な人ほど、声を上げられません。
「誰かに相談する」という行動そのものが難しい。
だからこそ、“先に行政が気づいてあげる”ことが必要なのです。
でも今はどうでしょうか?
- 自治体のホームページから「孤独相談」の文字が消え
- 支援団体が「今後は予算がつくのか分からない」と不安を漏らし
- 若者や高齢者がふたたび孤立へと追いやられていく…
国は「統合しただけで支援は続ける」と説明しています。
けれど、名前を消した時点で、関心は確実に薄れるのです。
これは、“切り捨てではない”という言葉でごまかせる問題ではありません。
政策は「効率」よりも「命」に向き合うべき
政治や行政は、とかく「効率」や「組織再編」「横断的な施策」を好みます。
たしかに、税金を使う以上、ムダを省く努力は必要です。
でも、孤独や孤立という問題は、数字では測れない**「心の問題」であり、「命の問題」**でもあります。
効率化を優先するあまり、誰かの生きづらさが見過ごされてしまうのだとしたら――
その政策は、果たして「人に寄り添っている」と言えるでしょうか?
今、社会が問われていること
孤独は、すぐ近くにあります。
家族がいても、仕事があっても、SNSをやっていても、人は簡単に孤立します。
私は、**「孤独担当大臣がいる社会」こそが、“人の気持ちを見ようとする社会”**だったと思っています。
だからこそ今、問われているのは――
「あなたの隣にいる人が、孤独で苦しんでいたら気づけますか?」
という問いなのかもしれません。
📝 おわりに
石破政権が「孤独対策大臣」を廃止した理由には、理屈としての正しさもあるのでしょう。
でも、“政策の名前を消す”という行為は、社会のまなざしを変えてしまう力があるのです。
私は今、政策の統合よりも、「見えない人に光を当てる政治」を望みます。
そして再び、「孤独」という言葉が正面から語られる社会が戻ってくることを願っています。
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