主役になれなかった気持ちと、脇役であることの居心地について

わき役 健康と生活

振り返ってみると、自分が人生の“主役”だったことがあったかどうか、正直よく分からない。

もちろん、若いころは「主役になってみたい」と思ったこともある。目立つ人、引っ張る人、注目される人。それが自分だったらいいなと憧れた。

でも、現実の自分はそこまで秀でた人間でもなく、自信があるわけでもなかった。人前に出ると緊張したし、自分の意見が通らなかったことも多かった。主役になりたい気持ちはあった。でも、主役であるに足る存在とは思えなかった。

それでも、場面によっては主役らしき立ち位置を担ったこともある。家庭や職場、あるいは地域のちょっとした行事。人が足りなければ出番が来るし、経験を重ねれば周囲が背中を押してくれる。

だから「主役だったことがない」とは言えない。
でも「主役として輝いていた」と言えるかといえば、そんな自信はない。

思い返せば、人生はそんなふうに主役と脇役を行ったり来たりしていたような気がする。

居場所がしっくりこない時間の長さ

他人とうまくやれた場面もある。
逆に、疎外感に苛まれた時間もあった。
輪に入れず、話題についていけず、誰かの視線を気にしてばかりいた日もある。

自分は何をやってもうまくいかないのではないか、どうしてこんなに居心地が悪いのかと思ったこともある。

でも、そういう時間がすべて悪かったとも思わない。
むしろ、今になってみると、そういう時期があったからこそ人の感情の揺れや弱さに敏感になれたのかもしれない。

人の輪の中にいるときは、それなりに空気を読み、求められる役を演じた。 けれど、自分の「本当の居場所」ってなんだろうと思いながら過ごしてきた気がする。

今の立ち位置は「脇役」かもしれない

今やっていることは、目立つことではない。誰かのサポートだったり、ちょっとした補助的な仕事だったり。

それを「脇役」と呼ぶのなら、今の自分は確かに脇役なのかもしれない。

でも、不思議とその立ち位置に違和感はない。
無理をして前に出なくてもいい。
誰かを押しのけてまで居場所を確保しなくていい。
自分の出番は、自分のタイミングでくる。

そのゆるやかさが、今の自分にはしっくりきている。

少し控えた方がいいかもしれない、という気配

一方で、心のどこかで「そろそろ控えめになった方がいいのでは」という声も聞こえてくる。

場に居すぎてはいないか。若い人の邪魔になっていないか。自分がしゃしゃり出ることで空気が乱れていないか。

そんなことを気にするようになった。

これが年を取るということなのかもしれないし、自分の中で“出る”より“引く”ことの意味が大きくなっているのかもしれない。

ただ、それもまた自然な流れだと思っている。
出るだけが価値ではなく、控えることもまた、一つの在り方だから。

いまのところは、うまく回っている

今の自分は、自分のタイミングで動き、自分のペースで関わることができている。

主役ではないし、脇役とも限らない。
ただ、場の片隅で自分なりの役割を果たしている。
それを誰かが見ていようといまいと、あまり気にしなくなった。

自分の立ち位置を決めすぎないことが、むしろ心地よい。

居場所は“作る”のではなく、“育てていく”ものかもしれない。

今の私は、そんな気分で日々を過ごしている。

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