
政府が打ち出した高齢者向けシェアハウスの整備計画。最初にこのニュースを目にしたとき、私は率直に「また理想だけが先走っている」と感じました。たしかに、高齢者の孤独死や介護施設の逼迫といった現実的な課題は深刻です。空き家問題や地域コミュニティの崩壊など、解決しなければならない要素も山積しています。けれど、その解決策として「高齢者同士の助け合い」を制度化するというのは、あまりに危うい発想です。
助け合いという言葉は美しい。しかし、それを制度の土台にしてしまうと、一気にその本質が変わってしまいます。現実には、人間関係には必ず「助ける側」と「助けられる側」が生まれます。特に高齢者社会においては、体力や判断力、生活能力に個人差が大きく、対等な関係を保つことが難しいのです。助ける側は、最初は善意から始めたことでも、次第にその負担の重さに耐えられなくなっていく。疲れた末に何も言わずにその場を去る──そんな構図がすでに多くの高齢者施設で繰り返されています。
そして、高齢者同士の共同生活が思うようにいかない最大の理由は、「人間関係の硬直性」にあると思います。年齢を重ねるほど、自分のやり方や考え方を変えるのが難しくなります。「音が気になる」「キッチンが汚い」「トイレの使い方が気に入らない」といった、若い世代ならスルーできるような些細なことが、深刻な対立を引き起こします。しかも、それを誰も調整してくれない。入居者同士の衝突が起きても、職員が常駐しているわけではないため、対立は長引き、精神的な孤立を招くことになります。
一部では「アパート形式ならまだマシではないか」という声も聞こえます。確かに、完全なシェアハウスよりも、プライバシーは守られるかもしれません。しかし、同じ建物に高齢者が集中すれば、結局は同じ問題が起きます。壁が薄ければ音のトラブルが起きるし、ゴミ出しのルールを守らない人がいれば不満が溜まります。共用廊下での口論、郵便物の誤配、騒音、臭い──。最終的には、警察が呼ばれるような事例すら現実に起きているのです。
それでも政府はこの制度を進めようとしています。その理由は、単純に「他に手がないから」です。高齢者の単身世帯は増え続け、介護施設も人手も予算も限界に来ています。孤独死は社会問題化し、空き家は放置される。もうすべてを行政で抱え込むことは不可能だから、「高齢者同士で助け合ってください」と言いたいのでしょう。これは理想の政策ではなく、国家としての“諦め”の象徴なのかもしれません。
しかも、人間関係のトラブルだけでなく、実際に“事件”が起きる可能性も見過ごせません。例えば、認知症の初期症状がある人が他人の部屋に入ってしまった、共用トイレの使い方をめぐって怒鳴り合いになった、ゴミ出しの時間を巡って罵声が飛んだ──こうした話は、既存の高齢者住宅でも頻繁に耳にします。「あの人は合わない」「気に入らない」という感情が、排除の空気を生み、やがて孤立や通報、暴力沙汰へと発展することもあるのです。
問題なのは、それが「起こるべくして起きる」という点です。多くの関係者が「最初からあの人はトラブルを起こすだろうと思っていた」と語ります。つまり、制度が人を選ばず、受け入れるだけ受け入れてしまう構造にこそ、根本的な欠陥があるのです。
さらに深刻なのは、地域や自治体の“責任の丸投げ”です。「地域で見守る」「住民で支える」といったきれいごとが並びますが、実際には誰も責任を取りません。自治体は制度の整備だけ、地域住民は「口は出すが手は出さない」、そして結局は、現場の高齢者同士がすべてを背負わされるのです。これは支援ではなく、放置です。
加えて、私のようにまだ働ける高齢者がいた場合、どうなるか。支援役として期待され、雑用を押し付けられ、気づけば周囲から頼られるだけの存在になってしまう。「元気だからいいじゃない」と言われても、その“元気”もいつかは尽きます。支える側が疲弊しても誰も助けてはくれません。
では、こうした制度が全くの無駄かというと、そうとも言い切れません。実現の可能性を少しでも上げるには、具体的な支援制度の整備が必要不可欠です。例えば、見守り役や共用部の管理を担う人には、家賃の減額や明確な報酬を与える。トラブルが起きたときの相談窓口を設ける。日中だけでも職員が巡回する仕組みを作る。そして、入居前には、相性や生活能力を丁寧に見極めること。こうした仕掛けがなければ、「支え合い」は続かないのです。
最後に、なぜ私はこの制度に懐疑的なのか。それは、制度が“人間”を軽視しているからです。人は、疲れる。気を遣う。我慢しすぎれば、壊れる。「みんなで仲良く」なんて言葉では、解決できないものが、人生の後半には確実にあるのです。誰かが誰かに依存し、誰かが我慢し続け、誰も声を上げられなくなったとき、制度は破綻します。
高齢者が安心して暮らせる社会を作るには、「制度に人間を合わせる」のではなく、「人間に制度を合わせる」こと。善意を仕組みにするのではなく、善意が潰れない仕組みを作ること。それこそが、今の日本に本当に必要な発想だと私は思います。
コメント