“無理が効かなくなった自分”との付き合い方
若いころは、睡眠が多少足りなくても仕事ができたし、無理をすればそれなりに何とかなると信じていた。風邪気味でも、「寝てれば治る」「気合で乗り切る」と自分に言い聞かせていた。けれど、68歳になった今、そんな自分はもういない。無理をすると、途端に体調を崩す。回復にも時間がかかる。精神的にも、引きずるような重さが残る。
最近では、朝起きたときの体の重さや、前の日の疲れをそのまま引きずっている感覚があたりまえになってきた。「疲れが取れない」のではなく、「疲れを持ったまま生きる」ことに慣れてきたようにさえ感じる。これは老化の一種かもしれないが、だからといって自分を責める理由にはならない。むしろ、「これが今の自分だ」と受け入れることが、いちばん自然な気がしている。
それに気づいたのは、ある日、仕事から帰ったあとだった。疲れた体でいつものように夕食を作り、お風呂に入り、座って動画を見ていたら、気づけば眠っていた。そして、目が覚めたとき、体がしびれたように動かず、頭もぼんやりしていた。「ああ、もう無理はきかないんだな」と、どこか納得するような感覚があった。
それ以来、私は“無理しない”ことを意識するようになった。意識して休む。今日は何もしない日、と決める。予定を詰め込みすぎない。人に頼まれごとをされても、今の自分に負担が大きければ、やんわりと断る。そんなふうに、“自分の限界を認める”ことで、逆に気持ちは楽になった。
それまでは、「これくらいやらなきゃ」「まだやれるはず」と思い込んでいた。だけど、それは過去の自分との競争であって、今の自分には不自然なことだったと気づいた。年齢とともに、無理がきかなくなるのは当然のこと。問題は、それをどう受け入れるかだ。
気力が出ない日もある。何をするのも億劫な日がある。そんなときは、無理に「がんばろう」と思わないようにしている。静かな音楽を流しながら庭を眺めたり、コーヒーを飲んでぼんやりしたりする。それだけでも、「生きている実感」は戻ってくるものだ。なにもしないことが悪だという思い込みから自由になると、不思議と心のほうが軽くなる。
そして最近、強く思うのは「人と比べない」ことの大切さだ。元気に働き続ける同世代の知人を見ると、時に焦ることもある。でも、それはその人の人生であり、自分の体は自分にしかわからない。誰かと比べても仕方ないし、昔の自分と比べても意味がない。今の自分の状態を、丁寧に感じ取ることこそが大事だと思う。
無理がきかなくなったことは、悲しいことではない。むしろ、自分のペースを大切にできるようになったということ。そう考えれば、年を重ねることは、決して「できないことが増える」だけではない。「しなくていいことを知る」という知恵でもあるのだ。
今の私は、無理をせず、焦らず、日々を穏やかに過ごしたいと思っている。少し歩いて、少し休んで、心地よい疲れとともに眠る。そんな一日が積み重なれば、それで十分なのだと思う。そういう人生を、「悪くないな」と思えるようになった自分を、ちょっとだけ誇らしく思っている。
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