1975年──日本は高度経済成長を終え、万博の余韻が残る時代。人々は未来に夢を抱き、漫画やアニメ、小説の中で“21世紀”の世界が描かれていた。
果たして、それらの予想は2025年の今、どれだけ現実となったのだろうか? 昭和のクリエイターたちが描いた未来を振り返りながら、現代とのギャップと共通点を探ってみよう。
■ 手塚治虫の未来──人とロボットが共存する時代
『鉄腕アトム』の主人公アトムの誕生日は2003年。人間と見分けがつかないロボットが感情を持ち、人類と共に生きる社会が夢見られていた。
▶現実は?
2025年現在、ロボットは掃除機や工場ラインでは活躍しているが、人間のような感情や道徳心を持つロボットはまだ存在しない。ChatGPTのようなAIが“会話”の相手にはなれるが、アトムのような存在とは程遠い。
また『火の鳥 未来編』では、コンピューターによる人類支配や遺伝子操作、環境破壊などが描かれており、そのディストピア的未来像は、現代のAI管理社会や気候危機と不気味に重なる部分もある。『メトロポリス』ではロボットと都市の関係が描かれ、階級格差や人間の欲望と技術進歩のねじれが描写されていた。
■ 藤子・F・不二雄と「ドラえもんの未来」
1969年に登場した『ドラえもん』。22世紀から来たネコ型ロボットは、未来の道具を使ってのび太を助ける。1975年当時は、ドラえもんの道具が「いつ実現するか」が子どもたちの関心ごとだった。
▶現実は?
・タケコプター ⇒ 個人用ドローンが一部実現。ただし人はまだ乗れない。
・どこでもドア ⇒ 実現不可能。ただしリモートワークが物理的移動を不要にした点では一部的中。
・ほんやくコンニャク ⇒ AI翻訳アプリがかなり近い存在に。
・スモールライト ⇒ ナノテクや3Dプリンタは進化したが、物理的な縮小は未実現。
総じて「発想の原型」は現代に存在しているが、道具のままの形では実現していない。それでも、ドラえもんが描いたのは“技術”より“優しさと希望”だった。
■ 石ノ森章太郎とサイボーグの未来
『サイボーグ009』や『人造人間キカイダー』など、石ノ森章太郎は「改造された人間」というテーマでテクノロジーと人間性の葛藤を描いた。
改造手術、人体の強化、AIとの融合──2025年の現代では、義手義足の高度化、ブレイン・マシン・インターフェース(BMI)といった分野で一部実現しているが、倫理面の課題は依然として重い。石ノ森が描いたのは、科学がもたらす“力”と“孤独”の同居だった。
■ アニメと特撮が描いたSF世界
『宇宙戦艦ヤマト』(1974)は西暦2199年の未来を描いたスペースオペラであり、宇宙戦争と地球滅亡をめぐる壮大な物語だった。『未来少年コナン』(1978)は戦争後の崩壊世界でのサバイバルを描いた。
また『ウルトラセブン』(1967-68)は、侵略者と戦う地球防衛軍の設定の中に、差別、軍備、暴力への懐疑といった社会的テーマが込められていた。これらの作品は、技術が進んだ未来でも人間の愚かさは変わらないという厳しいメッセージを投げかけていた。
■ 昭和の雑誌が描いた「21世紀のくらし」
1970年代の児童誌や家庭向け雑誌には、「2000年の日本」や「未来のくらし特集」が頻繁に登場した。内容には次のようなものがあった:
- 家庭用ロボットが掃除・洗濯・調理を担当
- 乗り物は空中を飛び交う
- 通勤・通学はテレビ電話やホログラムで
- 食事はカプセル1つ、洋服は“汚れない素材”
一部は現実になったが、ほとんどは実現せずに終わった。だが、これらは当時の人々の“未来への期待”そのものであり、今の私たちにも通じる「暮らしをもっと良くしたい」という願望の投影だった。
◆ 結局、未来は「予言」より「問いかけ」だった
昭和のクリエイターたちは、単なる未来の道具を描いたのではない。
「人はなぜ争うのか?」「科学は幸福をもたらすのか?」「ロボットに心はあるのか?」──そうした哲学的な問いが、物語の奥に潜んでいた。
2025年の私たちは、当時の“予想”を笑うことはできない。なぜなら、いまも未来は不確かで、選択の連続だからだ。
手塚治虫や藤子・F・不二雄、石ノ森章太郎が残したメッセージは、「未来は技術ではなく、どう生きたいかにかかっている」ということだったのかもしれない。
──そして今、あの頃の未来に、私たちは確かにいる。ただし、それは完成された姿ではなく、まだ「問いかけ」の途中なのだ。
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