世の中では「断捨離」や「ミニマリズム」がもてはやされ、モノを持たないことがすっきりとした人生につながると語られることが増えました。インテリア雑誌やテレビ番組でも、ホテルのように整えられたリビングや、余計な物を一切置かない生活空間が紹介されます。ああいう暮らしが理想なのだろうかと考えたこともあります。
けれど、私はどうしてもその発想に馴染めません。実際に片づけを試みたこともありましたが、手放したいと思えるものは一つも見当たりませんでした。気がつけば、部屋には相変わらず本や道具が積み重なり、机の上には生活の名残が雑多に並んでいます。それでも私は、その空間にこそ安心感を覚えるのです。
雑多な部屋が生む安心感
部屋にあるモノはどれも、ただのガラクタではありません。本棚に並んだ一冊の本は若い頃の思索を呼び起こし、棚に置かれた古いカメラは家族との思い出を宿しています。引き出しの中の文房具でさえ、日々の生活を支える相棒のような存在です。こうしたものたちに囲まれていると、「ここが自分の居場所だ」と実感できるのです。
反対に、ホテルのように整えられた部屋に長くいると、私はどこか落ち着きません。清潔で快適なのは確かですが、そこには「自分の痕跡」がないからです。自分の暮らしを映し出すものが周囲に存在しないと、居心地の悪さが増してしまうのです。
断捨離していないのは失敗ではない
一度「断捨離をしてみよう」と思ったことがあります。しかし、いざモノと向き合ってみると、どれも手放す気にはなれませんでした。なぜなら、どれもが私にとって必要だからです。世間の基準では「不用品」に見えるものでも、私にとっては日常を支える存在であり、心の拠り所でもあるのです。
だから私は断捨離をしていません。けれど、それは失敗でも怠慢でもありません。「不要なものがなかった」というだけのこと。むしろ、それは今の暮らしに納得している証でもあるのです。
他人の目と自分の感覚
もちろん、来客があれば「片づけた方がいい」と思うこともあります。整った空間は誰にとっても分かりやすく、見栄えも良いからです。けれど、暮らすのは自分自身です。自分にとって居心地が良いなら、雑多な部屋は何の問題もない。大切なのは「他人にどう見えるか」ではなく、「自分がどう感じるか」だと思います。
人によって快適さの基準は違います。ホテルのような空間で心が落ち着く人もいれば、オタク部屋のようにモノであふれた部屋でこそ安らぐ人もいる。私は後者であり、その事実を受け入れることで、かえって肩の力が抜けた気がします。
それでも、そろそろ終活も意識する
とはいえ、年齢を重ねると「自分がいなくなった後」のことを少し考えざるをえません。雑多な部屋で暮らすのは自分にとって最適でも、残された家族から見れば負担になるかもしれない。すべてを片づけるつもりはなくても、最低限の配慮は必要です。
だから私は、終活を「部屋を空っぽにすること」とは考えていません。むしろ「大切な情報を分かるように残すこと」。例えば、連絡先のリストやお金の管理方法、延命治療の希望などを紙にまとめ、目に付きやすい場所に置いておく。これだけでも十分な準備になるはずです。
おわりに
私は断捨離をしていません。モノであふれた雑多な部屋こそ、私が落ち着ける場所だからです。そこには私の人生が刻まれていて、何ひとつ無駄だとは思えません。
ただし、そろそろ終活も意識する年齢です。モノを捨ててホテルのような部屋を目指す必要はありませんが、残された人が困らないよう、小さな準備くらいはしておこうと思います。
これからも私は、雑多な部屋で、自分らしい暮らしを続けます。そして、その暮らしの延長線上で、少しずつ終活を整えていくつもりです。
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