弥助は、織田信長に仕えた黒人の男性であり、「黒人侍」と称されることについて問題視されていますが、正確には「侍」としての公式な地位があったかどうかは歴史的に明確ではありません。
下記の文献などを見てみますと、信長のボディーガード兼道具持ちとして重用されていたようです。
そもそも「侍」の定義がどういうものか不確かですが、弥助は信長に対して忠義をつくしている立派な人物に見えます。
※なお、下記はネットで調べたもので文献自体を読み込んではおりません。間違いがあればご教授ください。
1. 太田牛一『信長公記』
信長公記の記述:
- 力強さと存在感: 弥助は「十人力の剛力」として記録され、その力強さと特異な存在感が強調されています。信長が彼を特別に重用した理由の一つとして、この力強さが挙げられます。
- 信長の側近としての役割: 信長は弥助に腰刀(さやまき)や私宅を与え、弥助を側近として仕えさせました。彼の役割は単なる召使いではなく、信長の護衛や道具持ちなど、重要な役割を担っていたことが記されています。
2. ルイス・フロイス『日本史』
日本史の記述:
- 信長との出会い: 弥助が1581年にヴァリニャーノによって信長に紹介され、信長が弥助の黒い肌に驚き、実際に体を洗わせてその肌が本当に黒いことを確認したことが記されています。
- 力強さと見た目の特徴: 弥助は「身長約6尺2寸(約182cm)」で、非常に力強く、信長にとって興味深い存在でした。
- 本能寺の変における行動:1582年の本能寺の変において、弥助は信長と共に戦いました。信長の死後、弥助は信長の嫡男である織田信忠の元へ向かい、信忠のために戦い続けました。フロイスの記録によれば、弥助は信忠の元で相当長い間戦っていたとされています。
- その後:明智光秀の家臣が彼に「恐れることなくその刀を差し出せ」と言った際、弥助は刀を渡しました。光秀は、弥助を「動物」として扱い、日本人ではないため殺さずに南蛮寺に送るよう命じました。これにより、弥助は命を取り留めました。
3. 松平家忠『家忠日記』
家忠日記の記述:
- 弥助の存在と役割: 松平家忠の記録には、弥助が信長に仕えていたことが詳細に記されています。特に信長が弥助に与えた特別な待遇について触れられています。
- 信長との同行: 弥助は、信長の側近として頻繁に同行していたことが記録されています。特に、信長が戦場や視察に赴く際には、常に彼の側にいたとされています。
- 信長の護衛としての役割: 弥助はその力強さから信長の護衛として重要な役割を担っていました。信長の身辺警護を行い、重要な場面では信長の身を守るために行動していたとされています。
- 本能寺の変における行動: 本能寺の変において、弥助が信長と共に本能寺にいたことが記録されています。信長が襲撃された際、弥助は信長を守るために戦いましたが、最終的には捕らえられました。『家忠日記』には、弥助の捕縛について触れられていますが、その後の具体的な処遇については詳細が記されていません。
参考文献
- 太田牛一『信長公記』
- 太田牛一によって書かれたもので、弥助の存在やその役割について詳細に記されています。
- 信長公記 – 国立国会図書館デジタルコレクション
- ルイス・フロイス『日本史』
- イエズス会の宣教師ルイス・フロイスによる報告書。これには弥助の来日や本能寺の変での行動についての詳細が含まれています。
- Luis Frois, “Historia de Japam,” translated into Japanese as 『日本史』.
- 松平家忠『家忠日記』
- 松平家忠の記録である『家忠日記』には、戦国時代の日本における弥助の存在についての記述があります。
- 家忠日記 – 国立国会図書館デジタルコレクション
弥助が「侍」としての公式な地位を持っていたかは定かではありませんが、彼は信長の側近として重要な役割を果たしていたことは確かです。
弥助をめぐる騒動と偽の歴史を創作した人物
16世紀の日本に突如現れたアフリカ出身の弥助。彼の実像を巡る議論とトーマス・ロックリー氏の著作、Ubisoftのゲーム『Assassin's Creed Shadows』を通じた炎上事件を詳しく解説します。
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