旧唐書の和訳をしてみた

ゆる歴史

旧唐書

邪馬台国論争は停滞していますが、邪馬台国の位置を特定するのに引用されるのは、魏志倭人伝というのがもっぱら用いられています。 

魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称。当時、日本列島にいた民族・住民の倭人(日本人)の習俗や地理などについて書かれている。『三国志』は、西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)に書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた。

魏志倭人伝(2018年10月19日 (日)14:46 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』

魏志倭人伝以外にも、邪馬台国(?)についての記述のある、中国の歴史書があるのですが、日本の学界では偽書扱いになっています。それは「旧唐書」というものです。今回からしばらく、「旧唐書」について調べてみたいと思います。 

『旧唐書』(くとうじょ)は、中国五代十国時代の後晋出帝の時に劉昫、張昭遠、王伸らによって編纂された歴史書。二十四史の1つ。唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)について書かれている。 

当初の呼び名は単に『唐書』だったが、『新唐書』が編纂されてからは『旧唐書』と呼ばれるようになった。 

完成と奏上は945年(開運2年)6月だが、その翌年には後晋が滅びてしまうため、編纂責任者が途中で交代するなど1人の人物に2つの伝を立ててしまったり、初唐に情報量が偏り、晩唐は記述が薄いなど編修に多くの問題があった。そのために後世の評判は悪く、北宋時代に『新唐書』が再編纂されることになった。しかし、逆に生の資料をそのまま書き写したりしているため、資料的価値は『新唐書』よりも高いと言われる。 

旧唐書(2018年10月19日 (日)14:46 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』

原文:旧唐書 卷一百九十九上 列傳第一百四十九上 東夷

倭國 

倭國者,古倭奴國也。去京師一萬四千里,在新羅東南大海中。依山島而居,東西五月行,南北三月行,世與中國通。其國,居無城郭,以木爲柵,以草爲屋。四面小島五十余國,皆附屬焉。其王姓阿每氏,置一大率,檢察諸國,皆畏附之。設官有十二等。其訴訟者,匍匐而前。地多女少男。頗有文字,俗敬佛法。並皆跣足,以幅布蔽其前後。貴人戴錦帽,百姓皆椎髻,無冠帶。婦人衣純色裙,長腰襦,束發於後,佩銀花,長八寸,左右各數枝,以明貴賤等級。衣服之制,頗類新羅。 

貞觀五年,遣使獻方物。太宗矜其道遠,敕所司無令歲貢,又遣新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才,與王子爭禮,不宣朝命而還。至二十二年,又附新羅奉表,以通起居。 

日本 

日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本爲名。或曰:倭國自惡其名不雅,改爲日本。或云:日本舊小國,併倭國之地。其人入朝者,多自矜大,不以實對,故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里,西界、南界咸至大海,東界、北界有大山爲限,山外即毛人之國。 

長安三年,其大臣朝臣真人來貢方物。朝臣真人者,猶中國戶部尚書,冠進德冠,其頂爲花,分而四散,身服紫袍,以帛爲腰帶。真人好讀經史,解屬文,容止溫雅。則天宴之於麟德殿,授司膳卿,放還本國。 

開元初,又遣使來朝,因請儒士授經。詔四門助教趙玄默就鴻臚寺教之。乃遺玄默闊幅布以爲束修之禮。題云「白龜元年調布」。人亦疑其偽。所得錫賚,盡市文籍,泛海而還。其偏使朝臣仲滿,慕中國之風,因留不去,改姓名爲朝衡,仕曆左補闕、儀王友。衡留京師五十年,好書籍,放歸鄉,逗留不去。天寶十二年,又遣使貢。上元中,擢衡爲左散騎常侍、鎮南都護。貞元二十年,遣使來朝,留學生橘免勢、學問僧空海。元和元年,日本國使判官高階真人上言:「前件學生,藝業稍成,願歸本國,便請與臣同歸。」從之。開成四年,又遣使朝貢。

エキサイト翻訳で自動翻訳してみた

倭國 

日本の國者、古い日本の奴隷の國。京の師に1萬を4行きます千里、新しい羅の東の南の海の中で。山の島に従って與の中で、東の西5月の行、南北3月の行、世國通に位置します。その國、木の爲の柵、で草の爲の家で無の城郭、に位置します。四方の小さい島の50余り國、全てどうして屬を付け加えます。その王は阿毎の氏といって、大体1置いて、檢は諸の國をこまかに調べて、全て恐れて付け加えました。設の官は12などがあります。その訴の訟者、匍匐します前。地の多い女性は少なく男性だ。頗は文字があって、俗っぽく仏法(の力)をすすめます。並は全てはだしだ布がそれをおおう前に後で。貴人は錦の帽子、庶民全ておだんご、無の冠の帶をつけます。婦人の衣服の純の色のスカート、長の腰の短い上着、發の於後をくくって、銀を下げるのが派手で、長の8寸、各數の枝を左右して、明るい貴の賤などの級で。服の制、頗の類の新しい羅。 

貞観5年、1つの物を捧げるの派遣します。とても祖先の矛の柄のその道が遠くて、詔所の司は1歳の貢をさせるのがなくて、又遣新州の州長官は高は仁を表してなでるのへ祭を持ちます。仁を表してやっと平安で遠いのがなくて、王子と運命また(まだ)に向って贈り物、宣を争いません。22年着いて、また新しい羅奉を付け加えて表して、日常生活を通す。 

日本国 

日本の國者、日本の國の別の種。その國でだから日本の爲名で日の邊、にあります。あるいは言います:日本の國は惡のその名から上品ではなくて、爲の日本を直します。あるいは雲:日本の舊の小さい國、併の日本の國の地。その人は者に向って入って、多く自慢する大、いいえ實の對で、だからの中で國はどうして疑います。また雲:その國界の東の南西の北の各數の千里、西界、南界は全て海に着いて、東界、北界は山の外で、つまり毛深い人の國を制限する大山の爲があります。 

長安3年、その大臣は臣の真人に向って貢と方物に来ます。臣真人者に向って、まるで中国の戸部尚書、冠はドイツの冠、その頂に入りますか?派手で、分けて四方に散らばって、からだは絹織物で紫の長衣、に従いますか?ベルト。真人は史に経典を読んで勉強することができて、解は文に属して、容貌とふるまいが温和で上品です。日の宴会の麒麟の独殿で、授司のご飯の卿、置いて本国を返します。 

開元の初め、またへを派遣して、学者にを授けてもらうためです。詔の4つの助手の趙玄黙は鴻臚寺について教えました。でたらめなことを失って広い布に黙るですか?修理する贈り物をくくります。雲「白亀の元年の調子の布」を書きます。人もそれが偽りであることを疑います。所得のすずはまた(まだ)、尽市の書籍、汎海を賜います。それがどうしても臣に向って仲いっぱいで、中国の風を慕って、残していけないため、名前を直しますか?はかりに向って、仕は左を経過して過ち、計の王の友達を補います。はかり留首都の50年、良い書籍、放帰郷、滞在していけません。天宝の12年、また貢派遣します。上元の中で、はかりを抜き出しますか?左散は乗って常に南の都護を仕えて、抑えます。貞操の元の20年、へを派遣して、留学生のミカンは勢い、学問の僧の空いている海を免れます。元と元年、日本国は補佐役人の高位の真人の上で言います:「先行詞の学生、芸業は少しなって、本国に帰りを望んで、臣と同じところに行きついてください。」のから。4年開いて、また朝貢派遣します。 

エキサイト翻訳

自動翻訳の結果

自動翻訳ってほんとに面白いですね。原文の方が理解しやすく感じる部分もあります。 

貞元二十年,遣使來朝,留學生橘免勢、學問僧空海。

貞操の元の20年、へを派遣して、留学生のミカンは勢い、学問の僧の空いている海を免れます。 

「ミカンは勢い」「空いている海」と訳されます。人名なので当たり前ですが。

追記:2018年10月26日

倭国の段の原文

倭國 

倭國者,古倭奴國也。去京師一萬四千里,在新羅東南大海中。依山島而居,東西五月行,南北三月行,世與中國通。其國,居無城郭,以木爲柵,以草爲屋。四面小島五十余國,皆附屬焉。其王姓阿每氏,置一大率,檢察諸國,皆畏附之。設官有十二等。其訴訟者,匍匐而前。地多女少男。頗有文字,俗敬佛法。並皆跣足,以幅布蔽其前後。貴人戴錦帽,百姓皆椎髻,無冠帶。婦人衣純色裙,長腰襦,束發於後,佩銀花,長八寸,左右各數枝,以明貴賤等級。衣服之制,頗類新羅。 

貞觀五年,遣使獻方物。太宗矜其道遠,敕所司無令歲貢,又遣新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才,與王子爭禮,不宣朝命而還。至二十二年,又附新羅奉表,以通起居。

倭国の段の翻訳

倭國 

倭國者,古倭奴國也。

現在(当時)の倭国は昔の倭奴国のことである。

奴国=倭奴国=倭国。倭の奴国? 

去京師一萬四千里,在新羅東南大海中。

長安を離れること1万4千里、新羅の東南の海の中にある。

半島の東南にあるのは正解。 

依山島而居,東西五月行,南北三月行,世與中國通。

倭人は山や島に張り付いたように暮らしている。

確かに平野は少ない。

東西は五ヶ月歩いたほどの距離。

日本列島を縦断して歩くと五ヶ月くらいかかるらしいので、縦断なら正解。東西が不明。

南北は三ヶ月歩いたほどの距離。

南北が不明。

代々中国とは通じている。

遣唐使のこと。代々だと遣隋使のことも意味している。

其國,居無城郭,以木爲柵,以草爲屋。

倭国は城は無く、木で柵を作り、草葺きの家に住んでいる。

城が無かったのは、身分の上下が顕著で無かったということ。

四面小島五十余國,皆附屬焉。

四方には五十あまりの島があり、倭国に属している。

周りにある五十余りの島は全部属国ということ。

其王姓阿每氏,置一大率,檢察諸國,皆畏附之。

王の名前は阿毎氏。

阿毎とは「アマ」「アメ」。「天」のこと。天孫族。

軍隊(一大率)を置いて諸国を見張っているので、国民は恐れて服従している。

どこにも反乱分子はいるだろうから、睨みをきかしている。

設官有十二等。

官職は12ある。

冠位十二階と符号。 

冠位十二階(かんいじゅうにかい)は、日本で603年に制定され、605年から648年まで行なわれた冠位である。日本で初めての冠位・位階であり、この制定により人材登用の道が開かれた。朝廷に仕える臣下を12の等級に分け、地位を表す冠を授けるものである。七色十三階冠の施行により廃止された。

冠位十二階 Wikipedia 2018年10月26日11時21分

其訴訟者,匍匐而前。

訴訟を起こすものは、ひれ伏して進み出る。

国民が訴訟を起せる程の司法制度があったということ。民主国家の体はあったということ。

地多女少男。

女性が多くて、男性は少ない。

何故だろう。近年に戦争でもあったのか?

頗有文字,俗敬佛法。

文字はかなり普及していて、仏教を信仰している。

頗(すこぶる)はたいへんの意と少しの意がある。識字率高しとす。

並皆跣足,以幅布蔽其前後。

皆が裸足で歩き、前後を布で隠している。

身分にかかわらず裸足だったのでしょうか?腰布のみだと裸族の様。

貴人戴錦帽,百姓皆椎髻,無冠帶。

身分の高い人は綿の帽子をかぶっている。百姓は髷を結い帽子はかぶっていない。

椎髻(ついけい)は中国の少数民族のマゲのこと。それに似ていたのでしょう。

婦人衣純色裙,長腰襦,束發於後,佩銀花,長八寸,左右各數枝,以明貴賤等級。

婦人は無地のスカートに長襦袢、髪を後ろで束ね、長さ八寸の銀の花のかんざしを左右より数本挿し、これをもって身分の上下を示している。

女性の身なり。身分はかんざしで表すようです。

衣服之制,頗類新羅。

衣服の様子は新羅と似通っている。

衣服は半島の新羅と似ているそうです。

間(ま)

貞觀五年,遣使獻方物。

貞観5年、倭王は貢物をもって唐に使いを送った。

貞観5年は631年。遣唐使をおくった。

遣唐使を630年におくって、632年に帰国しているので符号している。

太宗矜其道遠,敕所司無令歲貢,又遣新州刺史高表仁持節往撫之。

唐の太宗は遠方よりの使者を不憫に思い、毎年の朝貢は無用と使いを下された。

また、新州の刺史、高表仁を遣わして倭王をいたわろうとした。

太宗皇帝は遠いところからの使いを労わり、無理して毎年来る必要はないと示された。

また、倭王をいたわろうと高表仁という勅使を倭国に使わした。

表仁無綏遠之才,與王子爭禮,不宣朝命而還。

ところが高表仁に外交の才が無く、倭王に無礼を働き、朝命を読み上げず帰国した。

無礼で横柄な態度でもとったのだろう。倭王にと争いになり、朝命も読み上げられず帰された。

至二十二年,又附新羅奉表,以通起居。

641年になって、倭王は新羅を通じてご機嫌伺いをしてきた。

貞観22年、倭王は新羅を通じて唐にご機嫌伺いを立てたということ。

倭国の段のまとめ

倭国は昔の倭奴国のことである。唐の長安をから1万4千里、新羅の東南の海の中にある。倭人は山や島に張り付いたように暮らしている。倭国の大きさは、東西は五ヶ月歩いたほどの距離、南北は三ヶ月歩いたほどの距離である。以前より中国とは行き来のある国だ。倭国は城は無く、木で柵を作り、草葺きの家に住んでいる。倭国の周りには五十あまりの島があり、倭国に属している。王の名前は阿毎氏。軍隊を置いて諸国を見張っているので、民は恐れて服従している。官職は12階級ある。倭国には司法制度もあり、訴訟を起こすものは、ひれ伏して進み出る。女性が多くて、男性は少ない。文字はかなり普及していて、仏教を信仰している。皆が裸足で歩き、前後を布で隠している。身分の高い人は綿の帽子をかぶっている。民は髷を結い帽子はかぶっていない。婦人は無地のスカートに長襦袢、髪を後ろで束ねている。長さ八寸の銀の花のかんざしを左右より数本挿し、これをもって身分の上下を示している。衣服の様子は新羅と似通っている。 

貞観5年、倭王は貢物をもって唐に使いを送ってきた。太宗皇帝は遠方よりの使者を不憫に思い、毎年の朝貢は無用と使いを下された。また、新州の刺史、高表仁を遣わして倭王をいたわろうとした。ところが高表仁に外交の才が無く、倭王に無礼を働き、朝命を読み上げず帰国した。貞観22年になって、倭王は新羅を通じてご機嫌伺いをしてきた。

日本国の段の原文

日本国 

日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本爲名。或曰:倭國自惡其名不雅,改爲日本。或云:日本舊小國,併倭國之地。其人入朝者,多自矜大,不以實對,故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里,西界、南界咸至大海,東界、北界有大山爲限,山外即毛人之國。 

長安三年,其大臣朝臣真人來貢方物。朝臣真人者,猶中國戶部尚書,冠進德冠,其頂爲花,分而四散,身服紫袍,以帛爲腰帶。真人好讀經史,解屬文,容止溫雅。則天宴之於麟德殿,授司膳卿,放還本國。 

開元初,又遣使來朝,因請儒士授經。詔四門助教趙玄默就鴻臚寺教之。乃遺玄默闊幅布以爲束修之禮。題云「白龜元年調布」。人亦疑其偽。所得錫賚,盡市文籍,泛海而還。其偏使朝臣仲滿,慕中國之風,因留不去,改姓名爲朝衡,仕曆左補闕、儀王友。衡留京師五十年,好書籍,放歸鄉,逗留不去。天寶十二年,又遣使貢。上元中,擢衡爲左散騎常侍、鎮南都護。貞元二十年,遣使來朝,留學生橘免勢、學問僧空海。元和元年,日本國使判官高階真人上言:「前件學生,藝業稍成,願歸本國,便請與臣同歸。」從之。開成四年,又遣使朝貢。

日本国の段の翻訳

日本国

日本國者,倭國之別種也。

日本国は倭国とは別の国である。

日本という国と倭国という国が並立していたわけです。

以其國在日邊,故以日本爲名。

その国は太陽がある方向にあるので日本という国名をつけている。

倭国より東にあるということなのでしょうか?

或曰:倭國自惡其名不雅,改爲日本。

あるいは、倭国はその国名が雅では無いとの理由で国名を日本に変更した。

この場合は倭国=日本国となります。倭とは中国がつけた蛮族で卑しい意味をもつ文字。

或云:日本舊小國,併倭國之地。

また伝え聞くところによると、古くは日本は小国であったが、倭国を併合したとも聞く。

やはり別々の国で、日本国が倭国を併合したとも伝え聞くということ。

其人入朝者,多自矜大,不以實對,故中國疑焉。

日本人は入朝しても尊大で誠意が感じられないので中国では疑ってかかっている。

つまり本音を言わず、皇帝に対して過度にはへりくだらない。だから日本人は信用できない。

又云:其國界東西南北各數千里,西界、南界咸至大海,東界、北界有大山爲限,山外即毛人之國。

日本人が言うには、日本国は東西南北に数千里の広さがあり、西と南の端は大海に面しており、東と北の端は大きな山に接している。山の向こうは毛人の国である。

西南が大海というのは瀬戸内海のこと、もしくは太平洋のことなのか?東北は大きな山に接しているという。飛騨山脈、木曽山脈、赤石山脈あたりだろうか?毛人とは蝦夷のこと。 

蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島の東方(現在の関東地方と東北地方)や、北方(現在の北海道地方)などに住む人々の呼称である。

中央政権の地域が広がるにつれ、この言葉が指し示す人々および地理的範囲は変化した。近世以降は、北海道・樺太・千島列島・カムチャツカ半島南部にまたがる地域の先住民族で、アイヌ語を母語とするアイヌを指す。

大きく、「エミシ、エビス(愛瀰詩、毛人、蝦夷)」と「エゾ(蝦夷)」という2つの呼称に大別される。

蝦夷 Wikipedia 2018年11月3日12時00分

間(ま)

長安三年,其大臣朝臣真人來貢方物。

長安3年(703年)に、日本国の大臣、朝臣真人(栗田真人・あわたのまひと)が貢物を持ち入朝した。

朝臣(あそん、あそみ)は、684年(天武天皇13年)に制定された八色の姓の制度で新たに作られた姓(カバネ)で、上から二番目に相当する。

猶中國戶部尚書,冠進德冠,其頂爲花,分而四散,身服紫袍,以帛爲腰帶。

真人の身分は中国の戶部尚書にあたる。彼は進德冠をかむり、その頂は花のように4つに分かれている。紫の衣に身を包み、絹の腰帯をつけていた。

戶部尚書は古代の官職、民部卿の別称とあります。進德冠はかんむりのこと。詳細は良くわかりません。紫は有名な冠位十二階では濃い紫が一位、薄い紫が二位なので、位は高いようです。なお、冠位十二階は684年で終了しています。

真人好讀經史,解屬文,容止溫雅。

真人は経書と史書を読むのを好み、良く理解した。立ち居振る舞いは優雅であった。

読書家で立ち居振る舞いが優雅ということ。

則天宴之於麟德殿,授司膳卿,放還本國。

則天武后は麟德殿の宴に真人を招き、司膳卿の官を授け、帰国させた。

則天武后の歓待を受け帰国したということ。

間(ま)

開元初,又遣使來朝,因請儒士授經。

開元の始めの頃、また来朝者があった。儒士に経を授けて欲しいとのことだ。

経典を求めて来朝したわけですね。儒士は儒学のマスターでしょう。

詔四門助教趙玄默就鴻臚寺教之。

四門助教の趙玄默を招いて鴻臚寺でこれを教えた。

四門助教というのは役職のようです。趙玄默は人名。わからん。

乃遺玄默闊幅布以爲束修之禮。

この者は趙玄默に教授の謝礼として幅広の布を贈った。

儒学教授の礼として幅の広い布を贈ったということです。布に価値があるのかな?

題云「白龜元年調布」。

布には「白亀元年の調布(税として収めた布)」と書かれていた。

調は租税の一種。調布は税として納めた布という意味ですが、転じて粗末な衣服という意もあるようです。

人亦疑其偽。

人はみな、これを疑った。

偽物だろうと踏んだわけです。

所得錫賚,盡市文籍,泛海而還。

この者は贈り物などもすべて売り払い、その金で書籍を購入して、海を渡って帰っていった。

有り金残らず、貰った物まで金に変えて、本を買って帰ったということです。日本人らしい行動ですね。

其偏使朝臣仲滿,慕中國之風,因留不去,改姓名爲朝衡,仕曆左補闕、儀王友。

その者の副官である朝臣仲滿(阿倍仲麻呂)は中国の風土を慕い、日本に帰らず中国に留まった。名を朝衡と改め、左補闕として仕えた。儀王のご学友となった。

副官の阿倍仲麻呂は中国が気に入って帰りませんでした。左補闕という役職をいただき、儀王のご学友として暮らしたそうです。

衡留京師五十年,好書籍,放歸鄉,逗留不去。

仲麻呂の京師滞在は50年にも及び、読書好きであった。職を解いて帰国させようとしたが、帰ることはなかった。

仲麻呂は50年も中国で暮らしました。読書好きだったようです。仕事をやめ、帰国するように促したが、帰らなかったそうです。

天寶十二年,又遣使貢。

天宝12年、日本国は再び使者を使わした。

753年に再度朝貢があったということ。

上元中,擢衡爲左散騎常侍、鎮南都護。

上元年間に朝衡を左散騎常侍、鎮南都護に抜擢した。

年間だから760~762のうちです。仲麻呂を左散騎常侍、鎮南都護に抜粋したということ。

貞元二十年,遣使來朝,留學生橘免勢、學問僧空海。

貞元20年にも日本国は朝貢してきた。留学生の橘逸勢と学問僧の空海である。

804年に橘逸勢と空海が朝貢したということ。

元和元年,日本國使判官高階真人上言:「前件學生,藝業稍成,願歸本國,便請與臣同歸。」從之。

元和元年に日本国使判官の高階真人が「前回の学生たちは学習も無事終えたので私と共に帰国させたい。」と願い出たのでそのとおりにさせた。

806年に日本国使判官の高階真人が就学を終えた橘逸勢と空海を連れ帰りたいと申し出て、少々されたということ。

開成四年,又遣使朝貢。

開成4年、日本国は再び使者を使わした。

839年に再度朝貢があったということ。

日本国の段のまとめ

日本国 

日本国は倭国とは別の国である。倭国よりも東にあるので日本という国名をつけている。もしくは、倭国という名前を嫌い国名を日本に変更したとも聞く。別の伝聞では、古くは日本は小国であったが、倭国を併合したとも言う。日本人は朝貢しても本音を言わず、皇帝に対して過度にはへりくだらない。だから日本人は信用できない。日本人が言うには、日本国は東西南北に数千里の広さがあり、西と南の端は大海に面しており、東と北の端は大きな山に接している。山の向こうは毛人(蝦夷)の国であると言う。 

長安3年(703)、日本国の大臣、朝臣真人(栗田真人・あわたのまひと)が貢物を持ち朝貢した。真人の身分は中国の戶部尚書にあたる。彼は進德冠をかむり、その頂は花のように4つに分かれている。紫の衣に身を包み、絹の腰帯をつけていた。真人は経書と史書を読むのを好み、良く理解した。その立ち居振る舞いは優雅であった。則天武后は麟德殿の宴に真人を招き、司膳卿の官を授け、帰国させた。 

開元の始めの頃(713~741)、また朝貢があった。儒士に経を授けて欲しいとのことだ。そこで皇帝は、四門助教の趙玄默を招いて鴻臚寺でこれを教えた。この者は趙玄默に教授の謝礼として幅広の布を贈った。その布には「白亀元年の調布(税として収めた布)」と書かれていたが、人はみな、これを疑った。この者は贈り物などもすべて売り払い、その金で書籍を購入して、海を渡って帰っていった。だが、その者の副官である朝臣仲滿(阿倍仲麻呂)は中国の風土を慕い、日本に帰らず中国に留まった。名を朝衡と改め、左補闕として仕えた。儀王のご学友となった。仲麻呂の京師滞在は50年にも及んだ。彼は読書好きであった。その後、職を解いて帰国させようとしたが、彼は帰国することはなかった。天宝12年(753)、日本国は再び使者を使わした。上元年間(760~762)に朝衡(阿倍仲麻呂)を左散騎常侍、鎮南都護に任命した。貞元20年(802)にも日本国は朝貢してきた。留学生の橘逸勢と学問僧の空海である。元和元年(804)に日本国使判官の高階真人が「前回の学生たちは学習も無事終えたので私と共に帰国させたい。」と願い出たのでそのとおりにさせた。開成4年(839)、日本国は再び使者を使わした。

追記:2018年12月2日

全訳文まとめ 書き出し

倭国 

倭国は昔の倭奴国のことである。唐の長安をから1万4千里、新羅の東南の海の中にある。倭人は山や島に張り付いたように暮らしている。倭国の大きさは、東西は五ヶ月歩いたほどの距離、南北は三ヶ月歩いたほどの距離である。以前より中国とは行き来のある国だ。倭国は城は無く、木で柵を作り、草葺きの家に住んでいる。倭国の周りには五十あまりの島があり、倭国に属している。王の名前は阿毎氏。軍隊を置いて諸国を見張っているので、民は恐れて服従している。官職は12階級ある。倭国には司法制度もあり、訴訟を起こすものは、ひれ伏して進み出る。女性が多くて、男性は少ない。文字はかなり普及していて、仏教を信仰している。皆が裸足で歩き、前後を布で隠している。身分の高い人は綿の帽子をかぶっている。民は髷を結い帽子はかぶっていない。婦人は無地のスカートに長襦袢、髪を後ろで束ねている。長さ八寸の銀の花のかんざしを左右より数本挿し、これをもって身分の上下を示している。衣服の様子は新羅と似通っている。 

貞観5年、倭王は貢物をもって唐に使いを送ってきた。太宗皇帝は遠方よりの使者を不憫に思い、毎年の朝貢は無用と使いを下された。また、新州の刺史、高表仁を遣わして倭王をいたわろうとした。ところが高表仁に外交の才が無く、倭王に無礼を働き、朝命を読み上げず帰国した。貞観22年になって、倭王は新羅を通じてご機嫌伺いをしてきた。 

日本国 

日本国は倭国とは別の国である。倭国よりも東にあるので日本という国名をつけている。もしくは、倭国という名前を嫌い国名を日本に変更したとも聞く。別の伝聞では、古くは日本は小国であったが、倭国を併合したとも言う。日本人は朝貢しても本音を言わず、皇帝に対して過度にはへりくだらない。だから日本人は信用できない。日本人が言うには、日本国は東西南北に数千里の広さがあり、西と南の端は大海に面しており、東と北の端は大きな山に接している。山の向こうは毛人(蝦夷)の国であると言う。 

長安3年(703)、日本国の大臣、朝臣真人(栗田真人・あわたのまひと)が貢物を持ち朝貢した。真人の身分は中国の戶部尚書にあたる。彼は進德冠をかむり、その頂は花のように4つに分かれている。紫の衣に身を包み、絹の腰帯をつけていた。真人は経書と史書を読むのを好み、良く理解した。その立ち居振る舞いは優雅であった。則天武后は麟德殿の宴に真人を招き、司膳卿の官を授け、帰国させた。 

開元の始めの頃(713~741)、また朝貢があった。儒士に経を授けて欲しいとのことだ。そこで皇帝は、四門助教の趙玄默を招いて鴻臚寺でこれを教えた。この者は趙玄默に教授の謝礼として幅広の布を贈った。その布には「白亀元年の調布(税として収めた布)」と書かれていたが、人はみな、これを疑った。この者は贈り物などもすべて売り払い、その金で書籍を購入して、海を渡って帰っていった。だが、その者の副官である朝臣仲滿(阿倍仲麻呂)は中国の風土を慕い、日本に帰らず中国に留まった。名を朝衡と改め、左補闕として仕えた。儀王のご学友となった。仲麻呂の京師滞在は50年にも及んだ。彼は読書好きであった。その後、職を解いて帰国させようとしたが、彼は帰国することはなかった。天宝12年(753)、日本国は再び使者を使わした。上元年間(760~762)に朝衡(阿倍仲麻呂)を左散騎常侍、鎮南都護に任命した。貞元20年(802)にも日本国は朝貢してきた。留学生の橘逸勢と学問僧の空海である。元和元年(804)に日本国使判官の高階真人が「前回の学生たちは学習も無事終えたので私と共に帰国させたい。」と願い出たのでそのとおりにさせた。開成4年(839)、日本国は再び使者を使わした。

倭国と日本国の位置

倭国の項目に、「倭国の大きさは、東西は五ヶ月歩いたほどの距離、南北は三ヶ月歩いたほどの距離である。」とあります。 

東西は五ヶ月ということで、これはほぼ、日本列島を縦断した距離と思われます。とすれば、当時の唐の日本地図は、日本は右に倒れていたということに成ります。 

東西に寝転んだ日本というわけです。そんな古地図をどこかで見たことはあります。 

「倭人は山や島に張り付いたように暮らしている。」この表現だと、平野で農耕をしているイメージとはとりがたいです。漁業や海運中心の海人族が思い浮かびます。 

「倭国の周りには五十あまりの島があり、倭国に属している。」とありますので、島が多数存在する瀬戸内海あたりのことのように思います。大分か愛媛あたりでしょうか。それとも、日本全土の周りの島を指しているのでしょうか。 

日本国は倭国の東にあるという表記と、倭国が改名したという表記があり、倭国と日本国が2つの国であり、後に統合したのか、あるいは、単に改名しただけなのかは、中国側も把握していなかったということなのでしょう。 

倭国と日本国が統合したとすれば、日本が倭国を征服したということのようです。 

「東と北の端は大きな山に接している。山の向こうは毛人(蝦夷)の国であると言う。」この文章だと日本国の概念が西日本に限定されるような感じがします。 

倭国の、東西五ヶ月歩いた距離というのは日本全土(離島はのぞく)を指していると思うのですが、日本国の表記ではその半分を指しています。 

日本国が倭国を飲み込んだ、あるいは日本国イコール倭国としても、領土の観念がずいぶん違うなと感じます。

表記のある年代を書き出してみた

倭国 

  • 貞観5年 631年 唐代 第1回目の遣唐使

日本国 

  • 長安3年 703年 唐代(武周朝) 第8回目の遣唐使
  • 開元の始めの頃 713~741年 唐代 第9.10回目の遣唐使
  • 天宝12年 753年 唐代 第12回目の遣唐使
  • 上元年間 760~762年 唐代 第13.14.15回目の遣唐使
  • 貞元20年 802(804?)年 唐代 第18回目の遣唐使
  • 元和元年 804年 唐代
  • 開成4年 839年 唐代 第19回目の遣唐使

このように一連の朝貢は全て遣唐使(旧唐書だからあたりまえか)です。 

日本国という国名が使われだしたのは、701年の大宝律令が正式のようですが、645年の乙巳の変(いっしのへん、いつしのへん、おっしのへん)後に使われだしたとも聞きますので、この間の期間であることは間違いないでしょう。 

貞観5年の第1回目の遣唐使が、日本国からではなく、倭国から派遣されたということなのでしょうか? 

第2回目の遣唐使は653年で、乙巳の変以降です。だとすれば、征服された側の遣唐使という制度を征服した側が引き継いだということになります。変ですね。 

こう考えると、倭国が改名して日本国になったという方が真実のような気がします。

旧唐書全体のまとめ

倭国と日本国は別の国である。あるいは、倭国は日本国と改名した。この2つの記述があるので、2つの国が一つになって日本国になったのかどうかは曖昧です。 

国土の概念も倭国は日本全土、日本国は西日本とかなり違います。 

思いつきで、「旧唐書 巻199上 列伝第149上 東夷」を読んでみましたが、私の今の知識では新しい発見にはつながらなかったようですが、そのうち役に立つかも知れません。ということで。

追記:2018年12月16日

邪馬台国の話はどこいった

冒頭で邪馬台国の位置の話を書いていますが、その後、一切触れていません。どこいったのでしょうか?自分でも不明です。

倭奴国が邪馬台国の唐代の国名であると言うことなのでしょうか?

旧唐書を呼んで、倭奴国こそ九州王朝だと断言している方もいるようですが、倭奴国の風俗として、山や島に張り付いて暮らしているとかかれているので、間違いなく瀬戸内海のことだと思います。

多分、大分と山口と愛媛をテリトリーとする海人族の王朝だったのではないかと踏んでいます。言い換えれば予の国の末裔、はたまた、スサノオの系譜とも言えそうです。

スサノオはアマテラスに敗れ、島根に逃亡します。つまり、旧唐書でいう日本国が、アマテラスの国、邪馬台国であって、伊の国ではないかと思うのです。決して近畿ではありません。アマテラス=卑弥呼=オオゲツヒメと考えています。

アマテラスはスサノオとの戦いで死にます。つまり天の岩戸に隠れるわけです。アマテラスの死は、古事記ではオオゲツヒメの死として描かれています。

スサノオはアマテラスを殺したものの、戦いには敗れ、島根に去ります。邪馬台国では天岩戸が開かれ、アマテラスが現れます。これがトヨウケビメだと思うのです。

時代がこんがらがっていますので、無茶なこと書いているかもしれません。そのうち、書き換えるか、抹消するかもしれませんが、今のところこんな感じです。

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