イザナミの死
2018年11月14日
黄土色
黄土色は色の名称です。代表的な地球の土の色で、アースカラーなんて呼ばれてもいます。だから、黄泉の国の「黄」は土の色であるわけです。
愛しい妻のイザナミを亡くしたイザナギは、妻恋しくてこう言います。
美しき我が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易へつるかも
一木というのは、一匹のことらしいです。カグツチを侮蔑して呼んでいるのだと思います。易は取り替えるの意味です。結局、腹立ち紛れにカグツチを十拳の剣で殺してしまいます。
イザナギは妻恋しくて、黄泉の国へ行くわけですが、この黄泉の国は墳墓のことだと思うのです。
イザナギはイザナミの墓を発いたのです。
当然、イザナミは腐乱しており、その醜悪さに百年の恋も冷めたのでしょう。もちろん、永遠の眠りを妨げられたイザナミは、自らの醜い姿も見られて激怒します。
ここから二人は180度転回して諍いを始めます。
墓を発いたのは現実であっても、イザナミが激怒したのはファンタジーです。実際はイザナミの墓が発かれたので、イザナミ側の人間が激怒して争いになったのでしょう。
実際にあった出来事として推測すると、イザナミ側の身内であったカグヅチが内乱を起こすのですが失敗し、イザナギによって粛清されます。
その時イザナミが命を落とすというわけです。
イメージ的にはイザナミの反乱ではなく、イザナミの意思とは別のところで起こった反乱のように思います。カグツチは捕縛され処刑されます。
泣沢女神(なきさわめのかみ)
イザナミの遺体のそばで、イザナギは突っ伏して泣くわけですが、この時、イザナギの涙から生まれた神が泣沢女神(なきさわめのかみ)です。
泣き女というのがあります。葬儀などの時に、報酬をもらって泣くという行為をします。涙は使者への贈り物のようです。
韓国の泣き女が有名ですが、中国にもあり、古代では日本の各地にも存在したそうです。
葬儀の時に、遺族(家族や親族)の代わりに故人を悼み、「悲しい」「辛い」「寂しい」などを表現するために大々的に、所によっては独特の節をつけて、一斉にあるいは延々と泣きじゃくることを以って生業(または副業)としたのが泣き女である。涙は死者への馳走であるとされ、一説には、悪霊ばらいや魂呼ばいとしての性格も併せ持つとされる。
泣き女 Wikipedia 2018年11月14日6時40分
泣き女については東洋独自の風習というわけではなく、古代エジプトやヨーロッパにも類する風習が見られるようです。
ナキサワメは「香山の畝尾の木のもとにます」と書かれています。香山というのは香具山のことのようです。
畝尾は、畝尾都多本神社という神社が奈良県の橿原市、香具山の麓に鎮座されているようです。
ナキサワメをお祭りしているので、ナキサワメがこの世に成り出たのはこの地なんでしょうか?
ただ、香具山には次の物語があります。
太古の時代には多武峰から続く山裾の部分にあたり、その後の浸食作用で失われなかった残り部分といわれている。山というよりは小高い丘の印象であるが、古代から「天」という尊称が付くほど三山のうち最も神聖視された。天から山が2つに分かれて落ち、1つが伊予国(愛媛県)「天山(あめやま)」となり1つが大和国「天加具山」になったと『伊予国風土記』逸文に記されている。また『阿波国風土記』逸文では「アマノモト(またはアマノリト)山」という大きな山が阿波国(徳島県)に落ち、それが砕けて大和に降りつき天香具山と呼ばれたと記されている、とされる。
香具山 Wikipedia 2018年11月14日6時43分
阿波国風土記によると、奈良の香具山は阿波の地より別けられたということなのです。
畝尾の木という木があるのか、単に畝尾の地にある木なのか、または、うねった尾根にある木なのかわかりません。参考書籍(角川ソフィアのみ)では、うねった小高い土地の木、または、奈良県橿原市木之本町の地名としています。
なんにしろ、当ブログは阿波風土記を押しますので、イザナミ、イザナギの物語が展開されたのは、阿波の地で間違いないと思います。ですから、ナキサワメも阿波の姫であるとします。
アマノモト(またはアマノリト)山が古事記にある香山であり、そこで生まれたナキサワメが奈良の地に降り立ち、その地にあった山が香具山となったのでしょう。
アマノモト山(天の元山)。天の香具山の元山というわけです。
イザナミの墓
亡くなったイザナミの遺骸が埋められた場所ですが、古事記にはこう記載されています。
出雲の国と伯岐の国との堺なる比婆の山に葬めまつりき。
出雲の国は島根県の出雲地方と考えがちですが、イザナミが亡くなった時代は、阿波(伊)の国で神生みをしている時代です。
現在の出雲地方はスサノオが戦いに敗れて入植した地と考えられます。出雲の国名もその時に持ち出したものでしょう。
この時代の出雲の国は伊予の二名の島のどこかにあると考えられます。
出雲の語源ですが、太陽神を祭る天神族ですから、その敵は雲です。雲が出て太陽を隠すことは敵対行為であるわけです。だから、敵対する者のいる地域はすべて出雲と呼ばれたというわけです。
「いづも」という音で考えてみると、「いづ」と「つも」に分かれます。「出づ」と「積も」とすれば、出でて積もるものを考えればいいわけです。これは河口の中洲、三角州があてはまります。
「伊つ面」というのも考えられます。伊の面ですね。当ブログは面というのは港町的な意味だとしています。だとすれば、伊の国の港、転じて海に面した居住地域を出雲と呼んだのではないでしょうか。つまり、海人族の村です。
だとすれば、海人族の王であるスサノオが入植した土地が出雲になっているのは納得できます。
次に伯岐(ははき)の国ですが、これは「妣國」(ははのくに)が思い浮かびます。「妣國」は根の国であり、黄泉の国です。「岐」は分かれ道の意がありますから、伯岐の国は黄泉の国または、黄泉の国と出雲の間にある国ではないでしょうか。
藤原宮跡から出土した戊戌年(文武天皇2年・698年)6月の年月が記された木簡に、「波伯吉国」とある。7世紀代の古い表記を多く残す『古事記』では、これと別の伯伎国という表記が見える。平安時代編纂だがやはり古い表記を残す『先代旧事本紀』には、波伯国造が見える。 伯耆国風土記によると手摩乳、足摩乳の娘の稲田姫を八岐大蛇が喰らおうとしたため、山へ逃げ込んだ。その時母が遅れてきたので姫が「母来ませ母来ませ」言ったことから母来(ははき)の国と名付けられ、後に伯耆国となったという
伯耆(ほうき)国 Wikipedia 2018年11月20日17時00分
比婆の山というのはどこなんでしょうか?
式内社であるイザナミ神社は美馬市穴吹町に鎮座しています。後に出てきますが、橘の小門は現在の橘湾辺りでしょう。
直線で結ぶと、間にある大きな山は高越山と中津峰山です。
中津峰山も怪しいですが、現在も海の守護神として祭られているようですから、中津峰山は海人族(出雲族)のテリトリーと考えられます。
それでは高越山かというと、出雲の国の境がこのあたりまであるとは思えません。もう少し小さい山の可能性があるのかも。
カグツチの処刑
2018年11月15日
カグツチの罪
生まれてくるとき、その炎で母であるイザナミの女陰を焼き、死に至らしめることとなったカグツチですが、その行為や落ち度ではなく、存在が原因であるというところに、複雑な意味が感じられます。
カグツチに罪はなかったのではないかとさえ思えます。
イザナギの怒りはすさまじく、カグツチはイザナギによって首を刎ねられます。この時使われたのが十拳の剣(とつかのつるぎ)です。十束剣ともいいます。
イザナギは怒りに任せてカグツチの首を刎ねます。この行為によって、多くの神さまが生まれます。
カグツチの処刑を内乱の果てと考えると、多くの神さまが生まれたということは何を意味するのでしょうか。もうひとつ、生まれ方にも何か意味があるのでしょうか?
- 剣の先についた血が湯津石村に飛んで生まれた神
- 剣の元についた血が湯津石村に飛んで生まれた神
- 剣の手上(柄)に集まり、指の間ににじむ血から生まれた神
- 殺されたカグツチの遺体(各所あります)より生まれた神
上記の別け方はちょっと偏っているかもしれませんが、大きく別けると、剣に付いた血より生まれた神さまと、カグツチの遺体より生まれた神さまということになります。
湯津石村
湯津石村についてはよく分かりませんが、勝手な解釈をすると、「湯」は湯水のごとくといいますので、多数あるみたいな意味。「津」は接続詞、「石」は石か岩。「村」は群れ。ということで、湧き出したように岩が連なる場所みたいな感じでしょうか。
岩山のような場所で、カグツチが処刑されたのかもしれません。
次からは生まれた神さまについて調べてみたいと思います。
剣の先についた血が湯津石村に飛んで生まれた神
石柝(いはさく)の神
岩をも切り裂く神ということで、刀剣の神とされているようです。
「柝」というのは拍子木または拍子木の音のことです。「析」であれば砕くというような意味がありますが、「柝」が使われていることで、何か意味でもあるのでしょうか。
他には雷神という説もあるようです。 「柝」だから刀剣が岩にあたる音でしょうか。
根柝(ねさく)の神
上記の続きだと、こちらは根を切り裂くということになるのでしょうか。
現代ならショベルカーみたいな重機のイメージですが、古代は人力または動物力(?)でしょうから、鍬とかの開墾のための道具かも知れません。
鍬だと根を砕くというイメージはないですね。
石筒(いはつつ)の男(お)の神
古事記では石柝・根柝の次に生まれたと表記されているのみですが、日本書紀では違うようです。
『古事記』の神産みの段でイザナギが十拳剣で、妻のイザナミの死因となった火神カグツチの首を斬ったとき、その剣の先についた血が岩について化生した神で、その前に石析神・根析神(磐裂神・根裂神)が化生している。『日本書紀』同段の第六の一書も同様で、ここでは磐筒男神は経津主神の祖であると記されている。『日本書紀』同段の第七の一書では、磐裂神・根裂神の子として磐筒男神・磐筒女神が生まれたとし、この両神の子が経津主神であるとしている
イワツツノオ Wikipedia 2018年11月28日6時43分
剣の元についた血が湯津石村に飛んで生まれた神
甕速日(みかはやひ)の神
「甕」は瓶の意味で、土器、陶器などを指すようです。土器の神さまでしょうか。
樋速日(ひはやひ)の神
「樋」はとい(雨どいなどのとい)の意味です。用水路か何かの神さまなのでしょうか。ミカハヤヒと共に農耕関係の神さまと言えそうです。
建御雷(たけみかづち)の男の神、またの名を建布都(たけふつ)の神、またの名を豊布都(とよふつ)の神
タケミカヅチは有名な神様で、この後も何度も古事記に登場します。
タケミカヅチ(タケミカヅチノオ)は、日本神話に登場する神。雷神、かつ剣の神とされる。相撲の元祖ともされる神である。
『古事記』では「建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)」や「建御雷神(たけみかづちのかみ)」、『日本書紀』では「武甕槌」や「武甕雷男神」などと表記される。単に「建雷命」と書かれることもある。『古事記』では「建布都神(たけふつのかみ)」や「豊布都神(とよふつのかみ)」とも記される。
また、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)の主神として祀られていることから鹿島神(かしまのかみ)とも呼ばれる。鯰絵では、要石に住まう日本に地震を引き起こす大鯰を御するはずの存在として多くの例で描かれている。
タケミカヅチ Wikipedia 2018年11月28日16時53分
タケミカヅチもそうですが、十束剣とカグツチの血から生まれた神さまは刀剣や戦いの神さまであることが通常のように思われます。
とすればミカハヤヒやヒハヤヒが農耕関係の神であるのは少し変な感じがします。ネサクもどちらかと言えば農耕寄りですけど。
剣の手上(柄)に集まり、指の間ににじむ血から生まれた神
闇淤加美(くらおかみ)の神
「闇」は谷の意。「淤」はどろ、水の底に溜まった泥、ふさがる、詰まる、転じて洲とか中洲の意があります。
谷の堰みたいな意味でしょうか?水の神で竜神というのが定説のようです。
闇御津羽(くらみつは)の神
文字からは想像できないですね。
神名の意味で「闇」は谷間を、ミツハは罔象女神(日本書紀での名)の罔象と同意味の水の神。
闇罔象神は峡谷の出始めの水を司る神である
クラミツハ Wikipedia 2018年12月3日15時17分
殺されたカグツチの遺体より生まれた神
正鹿山津見(まさかやまつみ)の神
カグツチの頭より成りませる神。
「正鹿(まさか)」というのは真坂のことでしょう。鹿は人が上れないような坂を駆けていきます。
「山津見(やまつみ)の神」は山の神を表します。鹿は人が上れないような険しい坂を駆けていきます。険しい山の神ということでしょうか。
淤縢山津見(おどやまつみ)の神
カグツチの胸より成りませる神。
「淤」は泥の意。「縢」はかがるという意。かがるは裁縫の「かがり縫い」などのかがるです。
泥のようにかがるというイメージですが、連なる山を連想してしまいます。山の連峰の神。
奥山津見(おくやまつみ)の神
カグツチの腹より成りませる神。
これは字のごとく、深山の神でしょう。
闇山津見(くらやまつみ)の神
カグツチの陰(ほと)より成りませる神。
闇だから、深夜の山の神なんでしょうけど、「陰(ほと)」というのは、女性器の外陰部のことを指しますが、カグツチは男神なので、男性の陰部のことだと思います。
ほとは古い日本語で女性器の外陰部を意味する単語。御陰、陰所、女陰の字を宛てることが多い。
現在ではほぼ死語になっているが、転じて女性器の外陰部のような形状、形質(湿地帯など)、陰になる場所の地形をさすための地名として残っている。
ほと Wikipedia 2018年12月8日18時9分
ウィキペディアの解説を読んでみると、深夜の山の神ではなくて、昼なお暗い、山の谷間の神のイメージが湧きます。山陰の山の神といったところでしょうか。
志藝山津見(しぎやまつみ)の神
カグツチの左の手に成りませる神。
「志藝」というのは何なのでしょう。「シギ」という鳥はいますが、水辺の鳥です。山の神であろうシギヤマツミとはかかわりがなさそうです。
「藝」には木を植えるという意味があります。
原字は「埶」で「木」+「土」+「丸」(両手を添える様)の会意文字で、直物に手を添え土に植えることを意味した。「艸」を添え、「蓺」として、植物であることを強調。「藝」は「云」を音符とし、「たがやす」に意を持った別字であったが、後に混同された。
この時代に植林という意識があったのかどうかは分かりませんが、現存する里山は人工的な自然で、まさに日本の農村文化の基盤となったものです。古代より自然をコントロールする術があったのかもしれません。
シギヤマツミは山の資源の神さま。
羽山津美(はやまつみ)の神
カグツチの右の手に成りませる神。
日本書紀では「麓山祇」と書かれているそうです。「麓」は裾野の意味ですから、「羽」も山が羽を広げたように見える裾野のイメージなのかもしれません。
ハヤマツミはなだらかな裾野の神さま。
原山津見(はらやまつみ)の神
カグツチの左の足に成りませる神。
これは裾野のもっと下の部分のようです。原っぱのことですね。しかし、山の神さまであることから、平野の原ではないと思います。山上の開けた原でしょうか。
ハラヤマツミは字のごとく山の野原の神さま。
戸山津見(とやまつみ)の神
カグツチの右の足に成りませる神。
「戸」は入り口の意味でしょう。登山口のことと思います。
トヤマツミは入山の神さま、または山道入り口の神さま。
カグツチを斬った刀
冒頭で「十拳の剣(とつかのつるぎ)」と書かれていますが、新たに刀の名称が書かれています。
かれ斬りたまへる刀の名は、天の尾羽張(おはばり)といひ、またの名は伊都の尾羽張といふ。
文頭の「かれ」は「故」と書きます。
「十拳の剣」は一般名称ですが、カグツチを斬った一振りの刀が神の名をもつ刀となったのでしょうか。
尾羽張は、幅広の刀の様子を表した言葉のようです。「天」は天神族のことでしょう。「伊都」は威力の意味とされています。
しかし、「伊都」の字は魏志倭人伝に出てくる伊都国を連想させます。「天」と「伊都」が同じものを指すとすれば、伊都国が天神族にかかわりのある国であったと考えられなくもありません。
また、伊の国の都ととれなくもありません。つまり、阿波の国こそ天神族の国ということです。飛躍しすぎましたでしょうか。
以上でカグツチの処刑部分は終わりです。以降はイザナギがイザナミに逢いたくて、黄泉の国に行く物語になります。
イザナミとの戦い
2018年12月18日
イザナギ、妻を追いかけ黄泉の国に行く
イザナギは妻恋しくて、我慢しきれず、ついに黄泉の国までやってきます。
「黄泉」というのは地下の泉のことで、死者の国をさすそうです。「黄泉」は中国から来た思想で、もともとヤマトの言葉としてあった「ヨミ」という言葉に当てはめたといわれています。普通に読めば「ヨミ」とは読めませんよね。
漢語としての「黄泉」
古代の中国人は、地下に死者の世界があると考え、そこを黄泉と呼んだ。黄は五行説で「土」を表象しているので、もともとは地下を指したもので、死後の世界という意味ではなかったが、後に死後の世界という意味が加わった。現代中国語でも死後の世界の意味で日常的に用いられている。
黄泉 – Wikipedia 2018年12月18日15時30分
イザナミは墓の扉を開けてこう叫びます。
愛(うつく)しき我(あ)が汝妹(なにも)の命、吾と汝と作れる国、いまだ作り竟(お)へずあれば、還りまさね
愛しい我が妻よ、共に作っていた国はいまだ完成してはいない、我と帰っておくれ。
イザナギはイザナミの墓を暴いてしまったのです。
イザナミ、ヨモツヘグイしてしまう
イザナギが妻の墓を暴いたのは、現実のことかもしれません。
死者であるイザナミが返答します。これは長いセリフなので簡単に書きますと、
「なんで、もっと早く来てくれなかったの。私はこの国の食べ物を食べて、死者になってしまったの。でも、神さまに頼んでみるから、待っていてください。それ以上入ってこないでね。それから、絶対に私のことを覗いたりしてはダメですよ。」
全然簡単じゃないですね。
ヨモツヘグイというのは有名な言葉で、「黄泉戸喫」と書きます。死者の国の釜(戸)で炊いた飯をたべると現世には戻れなくなるということなのです。
古代では埋葬と共にお供えとして、食料を共に埋めたようです。
生物は命をなくした瞬間から腐乱が始まります。人間も同じことです。腐乱した遺体が蘇ることがあってはいけないのです。共に埋められた食料を食べたのだから、帰ってこないでというような意味合いでしょうか。
イザナギ、待ちきれないで妻を覗く
待てと言われて待てないのが馬鹿な男の習性でしょうか。イザナギは待ちきれずにイザナミの姿を求めて墓に入ってしまったのです。
そこには、かつての麗しい妻の姿はなく、腐乱して横たわる妻の遺骸があるのでした。
妻の遺骸には蛆が湧き、八柱の雷神がとり付いていました。
腰を抜かさんばかりに驚いたイザナギは転ぶように逃げ帰ります。
収まらないのはイザナミです。怒髪天を衝くとはこのことでしょう。
「我に恥をかかせたな!」
と、怒り狂うのです。まあ、イザナギが悪いですよね。
あれだけ愛し合ったイザナギとイザナミですが、ここからは180度転回し諍いを始めます。逃げ帰るイザナギと、追いかけるイザナミの戦いです。
イザナミ、追っ手を送り込む
恥を掻かされ、怒り心頭に達したイザナミは、逃げ帰るイザナギに追っ手を差し向けます。この追っ手は黄泉醜女と呼ばれる、黄泉の国のバケモノ女です。
黄泉醜女(よもつしこめ)は、日本神話に伝わる黄泉の鬼女。予母都志許売とも呼ばれる。
恐ろしい顔をしており、一飛びで千里(約4,000キロメートル)を走る足を持つ。イザナミが自分との約束を破って逃げ出したイザナギを捕まえるため、黄泉醜女にイザナギを追わせた。イザナギは蔓草で出来た髪飾りを投げつけたところ、そこから山葡萄の実が生えた。黄泉醜女はそれに食いつくも、食べ終わると再びイザナギを追いかけた。次にイザナギは右の角髪から湯津津間櫛(ゆつつなくし)を取り、その歯を折って投げた。すると今度はタケノコが生えてきて、黄泉醜女はまたそれに食いついた。その間に、イザナギは黄泉醜女から逃げ切ったという。
黄泉醜女 – Wikipedia 2018年12月18日18時15分
黄泉醜女との攻防は上記に全て書かれていますのではしょります。
かろうじてイザナギは逃げ切りますが、イザナミは、次なる追っ手を差し向けます。
次の追っ手は、イザナミの遺骸に取り付いていた8柱の雷神です。イザナミは雷神に1500の軍勢を従わせ、イザナギを追います。
イザナギは十拳の剣を抜きます。
「後手(しりて)に振(ふ)きつつ逃げきませるを」
これはただ単に、後から迫り来る敵を剣で振り払いながら逃げるということでしょうか。それとも、何らかの呪術なのでしょうか。
これまでは十拳の剣による呪術かと思っていたのですが、この流れなら、単に振り払いながら逃走したということのようです。
イザナギ、最終兵器桃の実を投げる
イザナギは黄泉比良坂の坂本まで逃げてきた時に、そこに生っていた桃の実を3つ手にし、投げつけることで、追っ手を追い払います。
桃は中国では仙木で、邪気を払う呪力を持つ果実です。
桃は最終兵器であったわけです。それほど呪力の強いものとされています。
黄泉比良坂(よもつひらさか)は黄泉の国と現世との境にある坂です。坂本というのはその坂の端ということでしょうか。そこに神の木たる桃の木が生えていてのです。
イザナギは追っ手を退けた功績として、
「お前は私を助けたように、葦原の中つ国に生きている人々がつらい目にあっていたり、苦しんでいるときには助けてあげなさい。」
と言って、意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)という神名を与えます。
イザナミ、自ら追っ手となる
ラスボス、イザナミの登場です。
全ての軍勢を退けられたイザナミは、自ら乗り出し、イザナギを追います。イザナギは黄泉比良坂の中央に千引きの石を引き出し道を塞ぎます。千引きの石は千人の力で引くことのできる石のことです。でかい石ですね。
道を塞がれたイザナミは石を挟んでイザナギと向かい合います。イザナギはここで、事戸を渡します。事戸を渡す(ことどをわたす)とは、離縁を申し渡すいうことです。
道を塞がれ、離縁を言い渡されたイザナミは、
「あなたの国の民を、1日に千人殺しましょう。」
と言います。これに対して、イザナギは、
「それでは、私の国の民を、1日に千五百人生むこととしよう。」
と言い返します。
これにより、現世は1日に千人が死に、千五百人が生まれることとなりました。
戦いの終結
最後にイザナミに神名をつけます。その名は、黄泉津大神(よもつおおかみ)。イザナミは黄泉の国の女王となったのです。
そしてイザナミはもう一つ名を得ます。道敷の大神(みちしきのおおかみ)という神名です。道路を追いかける神との注釈がありますが、よそ者を追い出すみたいな意味でしょうか。よくわかりません。
黄泉比良坂の道を塞いだ千引きの石も神名をもらいます。道反の大神(ちかへしのおおかみ)と黄泉戸の大神(よみどのおおかみ)です。前者は道を塞ぎ、追い返すと言う意味、後者は道を塞ぎ遮るという意味でしょう。どちらもよそ者を退けるものです。
黄泉比良坂の現在の名ですが、出雲の国の伊賦夜坂(いふやざか)というそうです。
黄泉の国の段のまとめ
黄泉比良坂を逃げてくるのですから、坂道を下ってくるのだと思います。黄泉の国はただの地下の国ではなくて、高いところにある地下の国であるようです。つまり、平野ではなくて、山岳部の可能性が大です。
伊賦夜坂(いふやざか)は島根県松江市東出雲町揖屋というところにあるようです。出雲が伊の国の沿岸部(伊つ面)を指すとしている当ブログの解釈ですが、現出雲の伝説や地名は伊の国よりの入植者によって、後に構成されたものであると・・・しておきます。苦しい。
コメント