先日の上一宮大粟神社創建神話の話ですが、次のような内容です。
上一宮大粟神社の神社創建神話には、女神さまがやってきた時、男の神さまに「ご飯をください」と言った為、握り飯を食べさせたところ、阿波の国に永遠に留まり、大宜都比売となったとある。
そこでまあググってみるわけですが、
社伝によれば、大宜都比売神が伊勢国丹生の郷(現 三重県多気郡多気町丹生)から馬に乗って阿波国に来て、この地に粟を広めたという。
上一宮大粟神社 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ここでひっかるのは二つあります。
一つは出身地の「伊勢国丹生の郷」、もう一つは「馬に乗って」というところです。
丹生というのは何かというと、
辰砂 – 丹(に)は鉱物の辰砂のことを言い、丹生は、丹が採取される土地のことを言う。水銀を含む鉱石鉱物で、日本の鉱業では古来、丹、真朱、朱砂などと呼ばれ、神社等の赤色塗料や防腐剤として、また水銀にして仏像の鍍金に使われる重要な材料。
丹生 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
阿波もまた水銀の産地でもありますから、何か関係がありそうですね。
まあ、丹生のことは置いて置いて、今日は馬について考えてみたいと思います。
日本に馬が出現するのは古墳時代5世紀の中頃のようです。オオゲツヒメが馬に乗って阿波国に来たということは、オオゲツヒメは5世紀以降の人物ということになります。
馬が5世紀以前にいたという証拠があるにはあるようです。当然、5世紀以前の時代に馬の骨や馬具の遺物が出土したかどうかの話になります。
またもやググってみました。
山梨県のHPに日本最古級の馬の骨が出土したという話がでています。
山梨県では『日本書紀』の記載(文字史料)だけではなく、実際の存在する考古遺物として「日本最古級(古墳時代前期後半・4世紀後半・古墳時代前期第3四半世紀)のウマ」が甲府市塩部遺跡の方形周溝墓(溝を四角形に掘り、その内側に土を盛って作られたお墓)から出土しています。
日本最古級のウマ-塩部遺跡(しおべいせき)〔甲府市〕
4世紀後半なので大した違いはないかもしれませんが、それでも5世紀中ごろよりは以前です。
有名な魏志倭人伝にはウマ、ウシ、ヒツジはいなかったと書かれています。魏志倭人伝は3世紀末のものですから、その100年後にはウマがいたということになります。
ウマといえば当時の最新鋭兵器ですから、軍事機密であるウマの存在は魏には隠し通したという場合も考えられますよね。
神話の時代からウマがいたという証拠はありません。少なくとも4世紀後半以前にいたという証拠がありませんで結論は次のようになります。
大宜都比売神が伊勢国丹生の郷(現 三重県多気郡多気町丹生)から馬に乗って阿波国に来たという話は、後世の何者かが創作したもの。
だいだい伊勢から来たとか自体信じれんし。
コメント