天石門別八倉比売神社についての下調べ
2018年5月13日
八倉比売命神社
大麻比古神社は何度も訪れたことのある神社で、予備知識も多少なりともあるのですが、他の神社はこれまで縁もなく、全く知識がありません。次にどこの神社に参拝しようかと考えてみたら、候補がいくつかありました。
とりあえず、延喜式内社で選考してみますと、延喜式神名帳には大社3座3社・小社47座の計50座が記載されています。その3社が以下です。
- 大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ)
- 忌部神社(いんべじんじゃ)
- 天石門別八倉比売神社(あめのいわとわけやくらひめじんじゃ)
忌部神社か天石門別八倉比売神社というところですが、距離的にいうと天石門別八倉比売神社になりそうです。天石門別八倉比売神社は論社として3社ありますが、徳島市国府町の八倉比売神社に向かうことにしました。
論社というのは「似たような名の神社が二つ以上あって、どれが『延喜式』に記されている神社か決定し難いものをいう。」だそうです。以下が論社3社です。
- 八倉比売神社 徳島市国府町矢野
- 上一宮大粟神社 名西郡神山町神領
- 一宮神社 徳島市一宮町西丁
八倉比売神社は最初、気延山の頂上に鎮座していましたが、推古天皇元年(593年)に現在の地に移したそうです。
八倉比売命は天照大神と同一神と思われます。なぜなら、社伝には天照大神の葬儀の様子が記載されているそうなのです。また、社殿の裏には五角形の盤座があり、一説には卑弥呼の墓であるとされています。
八倉比売命=天照大神=卑弥呼と考えてもいいと素人は思うのですが、どうなんでしょうね。
阿波史跡公園
八倉比売神社は阿波史跡公園の中にあるそうです。以下碑文。
この地は二百基の古墳群 国富遺跡 国分寺遺跡があり、三角縁神獣鏡や銅鐸など古代の遺物が多数出土し、由緒ふかき神社仏閣も多く、また藍豪商人や名匠人形師を輩出した歴史とロマンの里である。
文化の香り高きこの地に、一大歴史公園を建設すべく東西矢野住民は心を一つにして運動すること十五年、徳島市並びに徳島市議会の理解と営団によって、ついに徳島市制百周年記念事業として阿波史跡公園を建設するに至った。
ここに公園第一期工事および展望台兼用上水道施設の竣功を祝し、この公園がいつまでも広く市民に愛されると共に、更に充実発展することを祈念し、全会員の名を刻してこの碑を建立する。
一九九四年三月二十七日 矢野文化財保勝会
古墳地帯なんですね。古墳が多いということは、このあたり一帯が古代の都市であったということの証です。卑弥呼の墓があるというくらいですから、邪馬台国がこの地であると言われても、否定はできませんね。
畿内説とか九州説とかはどうも無理があるような気がしています。 ウィキペディアには矢野古墳という項目と矢野遺跡と言う項目がありました。
矢野古墳
徳島市から名西郡石井町にかけての通称「気延山」から東へ派生する尾根上に位置する横穴式石室をもつ古墳。県指定史跡。
以前から開口していたが、2003年(平成15年)に発掘調査が行われた。その結果、墳形は径12mに復元される円墳で、玄室の床面は円礫を敷き詰め、羨道の途中に間仕切りを設ける複室構造をもつことが新しく判明した。複室構造は北部九州で流行する形態で、瀬戸内海を通じて広まる。出土遺物には、須恵器・土師器・鉄製品・金環などがある。出土した土器の年代から7世紀の築造であることも新たに分かった。
古墳のすぐ北西には、阿波国府推定地の観音寺遺跡が広がっている。阿波国府が置かれる直前の有力豪族の墓として重要な古墳。
徳島県立埋蔵文化財総合センター 「レキシル とくしま」オフィシャルサイト
八倉比売神社は、元々気延山の山頂にありましたが、後に杉尾山に移されました。現在は杉尾山自体がご神体とされています。気延山は源義経が訪れたことでも有名で、名前も義経由来のようです。
- 玄室(げんしつ):古墳の内部にあって、棺を納める室。
- 円礫(えんれき):岩石の破片のうち,大きさが2mm以上のものを礫という。川原の玉石のような丸いものを円礫,砂利道の砂利のような角張ったものを角礫という
- 羨道(えんどう):横穴式の古墳で、玄室に通ずる道。(せんどう)とも読む。
- 須恵器(すえき):古墳時代中頃から奈良・平安時代以後まで作られた灰黒色の陶質土器。
- 土師器(はじき):古墳時代から平安時代にかけて使われた、弥生(やよい)土器の系統を引く素焼(すやき)土器。
気延山(きのべやま)
1185年に源義経がこの山を訪れ休息したことから気延山と名づけられた。気延山の麓には「内谷板碑」と呼ばれる石があり、これは義経の家来である武蔵坊弁慶が山頂から投げ飛ばした石と云われている。
山頂には八倉比売神社があったが気延山南麓の杉尾山に鎮座した。三好実休の重臣である矢野国村が築城した矢野城跡がある。また麓にある阿波史跡公園内には矢野古墳や宮谷古墳がある。
気延山 (2018年5月16日 (土) 21:41 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』
矢野遺跡
縄文時代から中世にかけての、非常に大きな遺跡で、特に弥生時代は徳島県内の中心的な役割を果たした集落であった。遺跡内では、竪穴式住居群跡が見つかっており、弥生時代の中ごろから終わりごろにかけての竪穴式住居跡が100軒ちかく検出されている。
集落内で銅鐸埋納坑が検出された。これは全国的にも類例が少ない。また銅鉾埋納坑に柱穴や建物跡が伴う例は、矢野遺跡と島根県の荒神谷遺跡のみ。
島根県の荒神谷遺跡は1984年~1985年の2か年の発掘調査で、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土しました。銅剣の一箇所からの出土数としては最多だそうです。
天石門別神
天石門別神(あまのいわとわけのかみ)は日本神話に登場する神の名前です。今回参拝予定の八倉比売神社は、天石門別八倉比売神社の論社で八倉比売神社とされてるようですが、ネットで調べてみると、神社名が天石門別八倉比売神社であったり、八倉比売神社であったりとはっきりしません。
天石門別八倉比売神社と書かれた画像もアップされていますので、天石門別八倉比売神社が正式な神社名なんでしょうか。行ってみないと分からないですね。
『古事記』の天孫降臨の段に登場する。邇邇芸命が天降る際、三種の神器に常世思金神・天力男神・天石門別神を添えたと記され、同段で天石戸別神は又の名を櫛石窓神(くしいわまどのかみ)、豊石窓神(とよいわまどのかみ)といい、御門の神であると記されている。天孫降臨の段に登場する神の多くはその前の岩戸隠れの段にも登場しているが、この神は岩戸隠れの段には見えない。
天石門別神は古来より天皇の宮殿の四方の門に祀られていた神である。天太玉神の子ともいう。
天石門別神 (2018年5月16日 (土) 21:41 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』
ウィキペディアによると、ご祭神は八倉比売のみ書かれているので、八倉比売神社が正しいのかも知れません。
コメント